第8話「泥濘の再会」
グチャリ、と湿った泥濘を踏み荒らす鈍い音が、静寂の荒野に響いていた。
霜の降りた冷たい風の中、荒い馬の鼻息と、錆びついた金属具の擦れ合う耳障りな軋みが重なり合う。
要塞の頑強な防壁の前。 かつて白くひび割れていた街道は、雪解け水を含んで深い泥の海と化していた。
そこに立ち往生しているのは、セオドアが私兵として動員した三十騎ほどの騎兵隊だった。
だが、その姿に王都の華やかな貴族軍の面影は微塵もなかった。 馬たちは連日の強行軍で泡を吹き、騎兵たちの鎧は泥飛沫と埃で薄汚れている。
そして何より、先頭に立つ二人の姿は、あまりにも無残だった。
セオドア・グランヴェル。 金糸の刺繍が施されていた上着は泥にまみれて擦り切れ、その下にある顔は青白く痩せこけていた。
目の下には赤黒い隈が濃く刻まれ、血走った眼球が狂乱の光を放っている。
その隣の馬車にしがみついているミレイアもまた、見る影もなかった。
社交界で自慢していた金色の巻き毛は泥と汗で頭皮に張り付き、流行のドレスの裾は無残に破れて泥水を吸い上げている。
かつての甘ったるい笑みは消え失せ、飢えと恐怖で爪を噛む姿は、まるで追い詰められた野良犬そのものだった。
「……見苦しいですね」
私は、防壁の胸壁に手を置き、眼下の泥濘を見下ろした。
私の身を包んでいるのは、クレイヴン公爵家の正統な礼装だった。 夜空のように深い濃紺のシルクに、黒狼の銀刺繍が施された重厚な防寒マント。
土にまみれた作業着から一転し、北部の最高権力者を支える公爵夫人としての威厳を湛えた立ち姿に、周囲の騎士たちも息を呑んで控えていた。
城門の上を見上げたセオドアが、私の姿を認めた瞬間、その瞳に狂気じみた光が灯った。
「エレーナ……っ! エレーナだな! 門を開けろ! 俺を誰だと思っている! グランヴェル公爵家の嫡男にして、お前の婚約者だった男だぞ!」
裏返った叫び声が、冷たい風に乗って防壁を叩く。 セオドアは泥まみれの馬上で手綱を激しく引き絞り、喚き散らした。
「王都は今、未曾有の危機にある! 王立薬草園の作物は全滅し、貴族も平民も瘴気熱で倒れているのだ! 貴様が北部で新種の薬草を咲かせたことは知っている! すべての万能薬と薬草を、直ちに俺へ引き渡せ!」
どこまでも身勝手で、厚顔無恥な要求。
自らの怠慢と無能で王立薬草園を全滅させた責任から逃れ、他人の血と汗の成果を強奪して我が物にしようという魂胆が透けて見えていた。
「引き渡せば、お前の追放を解いてやる! 王都へ連れ戻し、再び俺の側室として仕える栄誉を与えてやると言っているのだ! 元婚約者としての義務を果たせ!」
側室。 義務。 吐き気を催すような言葉の数々に、私の隣に立つ黒狼騎士団の兵士たちが怒りで拳を震わせた。
すると今度は、ミレイアが馬車から泥の中へと転がり落ちるように降り立ち、防壁に向かって両手を差し伸べてきた。
「お姉様……! お姉様、お願い、助けてぇっ!」
計算された涙ではなく、本物の絶望に喉を詰まらせた悲鳴だった。
「王都はもう地獄なの! 誰も彼もが高熱で呻いて、薬草園の前には暴徒が押し寄せて……! 私のせいじゃないのに、みんな私を責めるのよ! お父様もお母様も、屋敷に閉じこもって怯えているの! 私、死にたくない……っ! お願いだから、あの奇跡の薬を私にちょうだい! 私たちは実の姉妹でしょう!?」
妹の叫びを聞きながら、私は冷たい風の中でまばたきを一つした。
毒殺の濡れ衣を着せ、婚約者を奪い、草木も育たぬ死地へと私を放逐した張本人が、今さら「実の姉妹」を名乗って物乞いをしている。
あの日、大聖堂の床に婚約指輪を置いた瞬間、私の中でこの者たちとの血の繋がりも、情も、すべて完全に消え失せていた。
セオドアの爛々と光る瞳が、防壁の上に立つ私へと向けられた。 なんとしてでも手に入れ、踏みにじり、己の盾にしてやろうという、浅ましい執着の視線。
その瞬間だった。
ザッ、と力強い足音が響き、私の視界が塞がれた。
「…………っ」
カルディス閣下が、私の一歩前へと踏み出していた。
黒鉄の甲冑を纏った閣下の広い背中が、セオドアたちの醜悪な視線を完全に遮断し、私をその強固な影の中にすっぽりと包み込む。
まるで、一筋の汚れた空気すら私に触れさせまいとするかのような、圧倒的な守護の姿勢だった。
カルディス閣下は、防壁の縁から冷酷極まりない眼差しを泥濘へと突き落とした。
「……戯れ言はそこまでだ、グランヴェル家の放蕩息子」
地を這うような低音。 それだけで、喚き散らしていたセオドアがビクリと肩を跳ね上げ、言葉を喉に詰まらせた。
「北部国境および荒野は、国王より委ねられたクレイヴン公爵家の絶対自治領だ。許可なき武装集団の越境侵入は、国家叛逆罪に相当する。……貴様らは、我が領地を武力で侵犯した」
「な、何を言っている! 俺は筆頭公爵家の嫡男だぞ! 北部辺境の田舎貴族風情が、この俺を罪人扱いする気か――!」
「総員、出撃」
セオドアの喚き声を遮り、閣下が短く右手を振り下ろした。
ズオオオオッ……!
重厚な鉄の城門が、轟音とともに左右に開け放たれた。 そこから雪崩れ出てきたのは、黒鉄の鎧に身を固めた黒狼騎士団の精鋭たちだった。
「な、なんだと……!? 構えろ! 応戦しろ!」
セオドアが狼狽して叫ぶが、勝負にすらならなかった。
連日の強行軍で泥に足を取られ、疲弊しきった私兵騎兵など、北部の極寒と瘴気を生き抜いてきた精鋭の敵ではなかった。
バキィッ! ドゴォッ!
瞬く間に馬から引きずり落とされ、私兵たちの剣はことごとく叩き折られた。
悲鳴と怒号が泥濘に響き渡り、わずか数分のうちに、私兵部隊は完全に武装解除されて泥の上に組み伏せられた。
「ひ、ひぃぃぃっ……!?」
ミレイアが短い悲鳴を上げて泥の中に尻餅をついた。 そしてセオドアもまた、馬から泥水の中へと叩き落とされた。
シャキンッ!
凍てつくような金属音が重なり合う。 泥まみれで這いつくばるセオドアとミレイアの喉元に、十数本の黒狼騎士団の抜き身の白刃が、ピタリと突きつけられた。
「動くな。刃が喉笛を裂くぞ」
騎士の冷徹な宣告に、セオドアは息を呑み、全身をガタガタと震わせた。 肌に触れる冷たい切っ先。
刃の鋭さに怯え、セオドアの股間から泥水とは違う生温かい液体が染み出し、強烈な失禁の臭いが漂い始めた。
「た、助けてくれ……! 俺はグランヴェル家の……っ!」
歯を激しく打ち鳴らしながら、かつての傲慢な婚約者は、泥水をすするようにして震え上がっていた。
ミレイアもまた、白刃の輝きに白目を剥き、恐怖のあまり声すら出せずに痙攣している。
私はカルディス閣下に促され、防壁の階段を降りて城門の外へと歩み出た。 泥濘の上に敷かれた木の板の上を進み、這いつくばる二人の前に立つ。
泥にまみれ、恐怖に顔を歪めて見上げてくるかつての婚約者と、妹。
見下ろす私の胸には、何の感慨も湧かなかった。 怒りも、恨みも、復讐の快感すらもない。
ただ、道端に転がる汚れた小石を見るような、どこまでも澄み切った冷たい静寂だけがそこにあった。
その時だった。
街道の彼方から、凄まじい地鳴りのような馬蹄の音が荒野を震わせた。 もうもうと立ち上る白煙のような土煙。
「見張りに報告! 王都より早馬の車列が接近! あれは――王立近衛兵の旗です!」
防壁の上から兵士の声が響き渡る。 泥濘の中にへたり込んだセオドアが、その声を聞いて一瞬だけ顔を上げた。
「お、王立近衛兵……? 父上だ……! 父上が俺を助けに、中央の軍を寄越してくれたんだ……!」
すがるような狂気の笑みを浮かべるセオドア。
だが、金色の獅子紋章を掲げて疾走してきた車列が要塞の前に滑り込んだ瞬間、その淡い希望は、完全なる破滅へと反転することになる。




