第7話「揺らぐ契約」
「……その手を、見せてくれないか」
低く、掠れた声が、暖炉の爆ぜる静寂の中に落ちた。
夜の帳が降りたカルディス邸の居間。 赤々と燃える薪の爆ぜる音が、パチリと小さく響いている。
白銀のルミナス草から精製された万能薬の奇跡は、わずか数日のうちに近隣諸領へと伝播していた。
長年、北部の過酷な瘴気に苦しめられてきた近隣の領民や騎士たちから、感謝と歓喜の使者がひっきりなしに訪れ、死地と呼ばれた荒野は希望の熱気に包まれていた。
だが、邸内を満たしていたのは、外の喧噪とは対照的な、息の詰まるような沈黙だった。
私はソファーに浅く腰掛けたまま、膝の上に置いた両手をそっと握り合わせた。 私の目の前に、カルディス閣下が立っている。
甲冑を脱ぎ、濃紺の部屋着を纏った閣下の瞳は、暖炉の炎を反射して揺らめいていた。
その双眸に宿る熱は、あまりにも深く、痛ましいほどに剥き出しだった。
「……私の手など、お見せできるようなものではございません。土を掘り、石を砕いてばかりいましたから」
私が微かに視線を伏せて断ると、閣下はたまらずといった様子で、私の前に片膝をついた。
「エレーナ」
名を呼ばれた瞬間、心臓が跳ね上がった。 いつもなら「エレーナ殿」と、礼法に則った距離を保って呼ぶはずの唇から、零れ落ちるように紡がれた私の名。
閣下は迷いながら、だが抗えない衝動に背中を押されるようにして、私の右手をそっと両手で包み込んだ。
「…………っ」
触れた瞬間、互いの体温が肌を通して流れ込んでくる。 以前のように手袋越しではない。
男らしく骨張った、だが驚くほど熱い閣下の素肌が、私の荒れた掌に触れていた。
「……すまない。私に、君を止める権利などないことは分かっている」
閣下の声が、苦悶に震えていた。 見上げる彼の蒼眸の奥で、激しい葛藤の嵐が渦巻いている。
「王都の大聖堂で、私は誓ったのだ。他領の内政に干渉できず、君が理不尽に踏みにじられるのをただ見ていることしかできなかった己を恥じ、ただ君の尊厳と安全を守るためだけに、契約の夫になろうと。……君を縛るつもりなど毛頭なかった」
閣下の大きな指先が、私の手の甲を震えながら撫でる。
「だが……君がこの荒野に立ち、泥にまみれながら奇跡を起こす姿を見るたび、私の胸の奥で何かが壊れていくのだ。契約という仮面を被り、君に触れぬよう、距離を保とうとするたびに……心が引き裂かれそうになる」
息が詰まる。 北の冷酷公爵と呼ばれ、感情を氷の刃の下に隠し続けてきた男が、今、私の足元で崩れ落ちそうになっていた。
「君を、誰にも渡したくない。契約の期限が尽き、君が私の元を去ってしまう日を想像するだけで、狂ってしまいそうだ。……君を手放すことなど、私にはもうできない」
告白だった。 飾り気のない、魂を削り出すような熱烈な求愛。
だが次の瞬間、閣下の表情は自らを責め苛む影に覆われた。
「だが……私のような男が、君に触れていいはずがないのだ。君の心を信じきれず、傷つけ、追放の場に立たせた愚かな者たちと、あの場で見殺しにした私に、いったい何の違いがあるというのか。……君という眩い光を、泥に汚れた私の手で汚してはならないのだと、頭では分かっているのに……」
引き裂かれそうな痛みを湛えた瞳。 冷酷公爵という鎧の奥底にあったのは、あまりにも純粋で、臆病なまでの不器用な愛だった。
私の胸の奥で、何かが熱く疼いた。 セオドアに裏切られ、実の家族に切り捨てられたあの日から、私の心に張り巡らされていた氷の壁が、音を立てて溶けていく。
――この人は、私を利用しようなどとしていない。 ――ただ、私そのものを、命を削るように求めてくれている。
「閣下……」
私が掠れた声を漏らした時、閣下はゆっくりと頭を下げた。
そして、私の右手を持ち上げると、開墾作業で豆の潰れた手のひら、赤く荒れた指の関節――その一つ一つに、誓いを刻むように、優しく、熱く、口づけを落としていった。
「…………っ、あ……」
唇が皮膚に触れるたび、甘い痺れが指先から腕へ、そして胸の奥へと駆け巡っていく。 痛々しい傷跡を愛おしむような、狂おしいまでの崇拝と熱情。
閣下の双眸が、至近距離で私を見上げていた。
――君が欲しい。
言葉にはならぬ激しい懇願が、その潤んだ蒼眸に溢れ返っていた。 あまりの熱気と色気に、私の心拍は狂ったように跳ね上がり、呼吸の仕方を忘れてしまいそうになる。
拒絶することなど、できなかった。 私は震える指先に力を込め、そっと、閣下の大きな掌を握り返していた。
「エレーナ……」
閣下が息を呑み、信じられないものを見るように目を見開く。 二人の距離が、吸い寄せられるように縮まろうとした、まさにその時だった。
◇
その頃、王都の宮廷大広間では、血の気の引くような怒号が飛び交っていた。
「グランヴェル公爵嫡男、セオドア! 貴様の報告書に偽りがあったことは明白である!」
中央評議会の議長が、手元の書類を激しく叩きつけた。 周囲を取り囲む貴族院の重鎮たちからも、冷酷な糾弾の視線が集中している。
「王立薬草園のルミナス草が全滅した事実を、貴様は日誌を改竄して隠蔽していたそうだな! そのせいで瘴気熱の備蓄解毒薬は完全に底をつき、王都ではすでに数百名が倒れているのだぞ!」
「ひ、日誌の改竄など……! 俺は知りません! すべて管理を任せていた現場の庭師どもが勝手にやったことで……!」
青ざめたセオドアが、汗まみれの顔で喚き立てる。 だが、その見苦しい責任転嫁に、議長は眉をひそめて吐き捨てた。
「見苦しいぞ! エレーナ嬢を追放して以降、薬草園の管理が破綻していたことは庭師たちの証言で完全に裏付けられている! グランヴェル公爵家といえど、この大失態は不問には付されんぞ!」
「ま、待ってください! 手はあるのです!」
追い詰められたセオドアは、目を血走らせて叫んだ。
「北部の荒野で、エレーナが新種の薬草を咲かせたという噂があります! あいつは俺の元婚約者だ! 俺が直々に出向けば、あの女は必ず薬草を差し出します! 北部の薬草を王都へ運べば、すべて解決するのです!」
「馬鹿を言え! 北部辺境はクレイヴン公爵の絶対自治領だ! 他領の貴族が無断で立ち入ることなど許されるはずが――」
議長の制止を振り切り、セオドアは狂乱の形相で広間を飛び出した。 もはや保身のために、周囲の法も秩序も目に入っていなかった。
◇
翌朝。 夜明けの冷気が漂う北部要塞に、突如としてけたたましい警鐘が乱打された。
カンカンカンカンッ……!
「敵襲……!? いや、あれは――!」
見張りの兵士の狼狽した叫び声が、要塞の石壁を震わせる。
私とカルディス閣下は、防寒の外套を羽織り、すぐさま防壁の上へと駆け上がった。 冷たい朝風が吹き抜ける中、城門の外を見下ろす。
要塞を囲む防壁の前、泥濘の広がる荒野の街道に、数十騎の武装した騎兵を引き連れた一団が、無断で領境を越えて押し寄せてきていた。
馬上の先頭にいるのは、泥にまみれ、焦燥と狂気で目を血走らせたセオドア・グランヴェル。
そしてその隣には、乱れた髪と青ざめた顔で馬車にしがみつく、ミレイアの姿があった。
「開門しろ! エレーナを出せ!」
セオドアの甲高い怒声が、静まり返った北部の空気を醜く引き裂いていた。




