第6話「白銀の開花」
奇跡とは、天から降ってくる偶然の産物にすぎないのだろうか。
夜の帳が降りた荒野の丘に立ち、私は眼下に広がる光景を見下ろしていた。 かつて赤黒い瘴気が渦巻き、白くひび割れていた大地。
いま、そこを埋め尽くしているのは、どこまでも波打つ広大な緑の絨毯だった。
石灰で酸を抜き、腐葉土で土に息を吹き込み、農民たちとともに水路を巡らせてから数ヶ月。
丹精を込めて育て上げたルミナス草の畑は、夜気配の中で静かに満開の時を迎えようとしていた。
満月が中天に昇ったその瞬間だった。
パキ、と微かな音が無数に重なり合い、畑全体を震わせた。 ふっくらと膨らんでいた無数の蕾が、まるで合図を交わしたかのように、一斉にその花弁を解き放ったのだ。
夜の闇を切り裂いて立ち上ったのは、息を呑むような白銀の光だった。 月光を吸い上げ、大地の魔素を変換した純白の花々が、淡く清らかな燐光を放ちながら揺れている。
風が吹くたび、銀色の光の波が丘を駆け抜け、甘く澄んだ香りが鼻腔を満たしていった。
「……咲いた」
息を詰めて見守っていた騎士や農民たちの間から、震えるような吐息が漏れる。 だが、私に見惚れている暇はなかった。
「皆さん、今です! 開花したばかりの花弁を、朝露が降りる前に摘み取ります!」
私は麻の作業着の上から厚手の革エプロンを締め直し、籠を手にして畑へと駆け出した。
ルミナス草の薬効成分――瘴気を中和し細胞を活性化させる魔素の結晶は、開花してから数時間の間だけ、花弁の基部に最高濃度で凝縮される。
陽が昇れば、その魔素は大気中へと霧散してしまうのだ。
「急げ! 奥様の指示に従え!」 「花首を傷つけるなよ、指先でそっと摘むんだ!」
バルドの号令のもと、農民たちと騎士たちが総出で畑に入り、慣れた手つきで銀花を摘み取っていく。
私は畑の脇に急造した作業小屋へと飛び込み、すぐさま現場での精製作業に取り掛かった。 銅とガラスを組み合わせた大型の蒸留器。
運び込まれたばかりのみずみずしい花弁を、熱湯の張られた釜へと惜しみなく投入する。
薪をくべ、火力を一定に保ちながら、冷却管の温度を指先で確かめる。
沸騰とともに立ち上る蒸気は、純白の魔素を濃縮しながら管を通り、冷やされて一滴、また一滴と硝子の受器へと滴り落ちていく。
その時だった。
ゴオオッ……!
小屋の外から、大地を揺るがすような不穏な唸り声が響いた。
満開の光に引き寄せられるように、荒野の最深部――濃密な瘴気が澱む断崖の底から、赤黒い霧の奔流が這い上がってきたのだ。
「瘴気だ! 谷の残滓が吹き上がってきたぞ!」 「畑が呑まれる……!」
外の兵士たちに動揺が走る。 赤黒い瘴気の波が、まるで獲物に襲いかかる大蛇のように、白銀の花畑へと雪崩れ込もうとしていた。
だが、次の瞬間、誰もが我が目を疑った。
ザッ、と銀色の花々が一斉に天を仰ぐように葉を広げたのだ。
押し寄せる赤黒い毒霧を前に、ルミナス草は萎れるどころか、地中から魔素を吸い上げ、より一層強烈な白銀の光波を放ち始めた。
チリチリと、何かが燃え尽きるような清らかな音が荒野に満ちる。
畑を覆い尽くそうとした濃密な瘴気は、銀の花々が放つ清純な光に触れた端から、まるで朝露が陽光に消えるように、跡形もなく浄化され、白く澄んだ大気へと霧散していった。
大地に根を張った植物自らが、自活し、瘴気を無力化している。
前世の知識とこの世界の生命力を融合させ、過酷な土壌で鍛え上げた新品種の真価が、そこに証明されていた。
私は安堵の息を漏らす暇もなく、蒸留器の火を見守り続けた。 朝焼けの光が作業小屋の窓から差し込む頃。
硝子瓶の底には、淡い白銀の光を内側に閉じ込めた、とろみのある透明な液体が満たされていた。
「……できた」
一滴で数十人分の瘴気毒を無効化する、真の特効薬――「奇跡の万能薬」の完成だった。
私はその硝子瓶を抱え、要塞の奥にある医務室へと走った。
そこには、長年北部の国境監視所で任務に就き、重度の瘴気中毒に侵されて寝たきりになっていた老兵が横たわっていた。
顔色は土気色に沈み、喉からはゼイゼイと苦しげな喘鳴が漏れている。
「奥様、本当にこれを……?」 軍医がおずおずと尋ねてくる。
「ええ。小さじ一杯だけ、舌の上に垂らしてください」
私の指示に従い、軍医が銀の匙で薬液を老兵の唇へと運んだ。 白銀の雫が口内へと滑り落ちた、その直後だった。
老兵の胸元が大きく波打ち、激しい咳き込みとともに、肺に溜まっていた黒ずんだ痰が吐き出された。 そして――。
「あ……が……?」
老兵の濁っていた瞳に、急速に光が戻ってきた。 紫色に変色していた唇と指先へ、みるみるうちに血の気が巡り、健やかな赤みが差していく。
荒れ狂っていた呼吸は静まり返り、老兵は信じられないといった様子で、自らの両手を持ち上げた。
「息が……できる……。胸の痛みが、消えた……?」
「嘘だろう……!? 熱が完全に下がっている!」 軍医が悲鳴のような声を上げた。 「数ヶ月も苦しんでいた瘴気熱が、たった一口で……!」
奇跡を目の当たりにした医務室に、一瞬の静寂の後、割れんばかりの歓声が爆発した。
「治ったぞ! 爺さんが治った!」 「本当に万能薬ができたんだ!」 「奥様万歳! エレーナ様万歳!」
兵士たちと農民たちが抱き合って飛び跳ね、涙を流して喜びを分かち合う。 私はその熱狂の渦からそっと身を引き、作業小屋へと戻った。
張り詰めていた糸が切れ、壁に背を預けてへたり込みそうになった、その時だった。
バタン、と小屋の扉が勢いよく開かれた。
飛び込んできたのは、カルディス閣下だった。 黒鉄の甲冑を纏ったままの閣下は、肩で荒い息をしていた。
その蒼眸には、信じがたいものを見た衝撃と、抑えきれない激情が渦巻いている。
「閣下、薬は無事に――」
言い終えることはできなかった。
ガシャリ、と金属の擦れ合う硬い音が鳴り響き、私の身体は強い力で引き寄せられていた。
「…………っ!」
カルディス閣下の両腕が、私の背中に回されていた。 力任せに、だが壊れ物を扱うような慎重さで、強く、強く抱きしめられる。
胸当ての冷たい鉄の感触の奥から、閣下の激しい心臓の鼓動が、痛いほどの熱を持って伝わってくる。
「閣……下……?」
「エレーナ……」
掠れた声が、私の耳元に落ちた。 閣下は私の首筋にその整った顔を深く埋め、全身を震わせていた。 首筋にかかる彼の呼気があまりにも熱く、肌が粟立つ。
「君は……君という人は……。どれほど私を……恥じ入らせれば気が済むのだ……」
それは、怒りでも歓喜でもなく、己の無力さを打ち砕かれた男の、魂の底からの叫びのようだった。
「救うと誓ったはずの私が、また君に救われた。……この土地も、民も、そして私自身も……」
抱きしめる腕の力が、さらに一段と強くなる。 冷酷公爵と呼ばれ、常に理性の仮面を貼り付けていた男の殻が、目の前で音を立てて崩壊していく。
至近距離で触れ合う体温と、首筋を灼く熱い吐息に、私の心臓は狂ったような早鐘を打ち鳴らしていた。
◇
同じ頃、王都は阿鼻叫喚の地獄へと叩き落とされていた。
季節外れの南風に乗って運ばれた濃密な瘴気が、王都の市街地を直撃したのだ。
流行した「瘴気熱」により、王都の貴族や平民たちが次々と高熱を発して倒れ伏し、特効薬であるルミナス草の需要は一瞬にして跳ね上がった。
だが、人々が殺到した王立薬草園の正門前で、目にしたのは絶望だった。
「薬を出せ! 私の息子が死にそうなのだ!」 「王立薬草園は何をしている! 備蓄があるはずだろう!」
押し寄せた貴族や市民たちの怒号が、重厚な鉄門を揺るがす。 温室の奥では、セオドアが青ざめた顔で立ち尽くしていた。
彼の足元に広がっていたのは、黒く腐敗し、ドロドロの泥水となって異臭を放つ、全滅した薬草畑の残骸だった。
土壌の酸度過多と根腐れにより、王立薬草園のルミナス草は、一夜にして一株残らず枯死していたのだ。
「ひ、ひぃっ……! な、なぜだ……! なぜ薬草が全滅しているんだ!?」
門の外から投げ込まれた石がガラスを割り、鋭い破片がセオドアの足元に散らばる。
群衆の怒号と呪詛の声に取り囲まれ、セオドアは失禁寸前の恐怖に震え上がりながら、ただ頭を抱えて悲鳴を上げることしかできなかった。
◇
北部要塞に、王都からの至急報を携えた早馬が転がり込んできたのは、その日の夕刻だった。
「緊急報告! 王都にて大規模な瘴気熱が発生! 王立薬草園のルミナス草は一夜にして全滅、備蓄も底をつき、都市機能が崩壊の危機に瀕しております!」
疲弊した使者の悲痛な叫びが、要塞の広間に響き渡る。
私とカルディス閣下は並んで立ち、その凶報を冷然たる沈黙の中で受け止めていた。
満開の白銀の花畑を背に、因果の歯車は、容赦なく加害者たちをすり潰す方向へと回り始めていた。




