第5話「翡翠の芽吹き」
大聖堂で追放を宣告されてから、ひと月半の歳月が過ぎていた。
かつて王都のサロンで「草木一本育たぬ呪われた土地」と忌み嫌われていた北部の荒野は、いまや要塞に駐屯する黒狼騎士団の視線を釘付けにしていた。
「おい、今日も葉が増えているぞ……!」 「嘘だろう、昨日の夕方より一回り大きくなっている」
朝の巡回を終えた兵士たちが、訓練の合間に競うように畑の縁へと集まってくる。
石灰と腐葉土を漉き込み、深く耕した畝の上には、朝露を浴びて青々と輝くルミナス草の幼苗が整然と並んでいた。
かつて白くひび割れていた大地は黒々とした湿り気を帯び、冷たい北風の中でも、植物たちは力強く茎を伸ばしていた。
一方、王都を行き来する定期の公文書便や商人たちの間では、不穏な噂が囁かれ始めていた。
王立薬草園の作物が急速に黄変し、どれほど高価な魔導肥料を与えても葉先から腐り落ちているという。
土の酸度を抜き、呼吸を整える術を知らぬ者たちが管理しているのだから、当然の帰結だった。
だが、私には王都の混乱を気に病んでいる暇など毛頭なかった。
「……芽吹いただけで満足するわけにはいかないわね」
私は泥のついた作業ズボンの膝を払い、手にした木箱の中を覗き込んだ。
中に入っているのは、荒野の切り立った岩壁や谷底の裂け目を歩き回り、自らの手で採取してきた数種類の自生植物だ。
何十年、何百年と北部の濃密な瘴気と氷点下の寒風に晒されながらも、岩肌にしがみついて生き延びてきた頑強な野生種たち。
王都から持ち込んだルミナス草の原種は、清浄な魔素を蓄える力こそ高いが、北部の過酷な環境下では、花を咲かせる前に体力を使い果たしてしまう恐れがある。
ならば、掛け合わせるしかない。 野生種の強靭な根張りと耐寒性、そしてルミナス草の優れた魔素変換能力。
互いの雄しべと雌しべを細い筆先で慎重に交配させ、環境に適応した個体を現場で選抜・固定していく。
前世で培った育種の技術を総動員し、私は連日、畑の片隅に設けた育苗床にかじりついていた。
「おい! 公爵夫人だか何だか知らねえが、いい加減にしねえか!」
怒声とともに、重い足音が土を蹴立てて近づいてきた。 現れたのは、日に焼けて深い皺の刻まれた顔に、無骨な体躯をした初老の男だった。
背後には、鍬や鋤を手にした数十人の農民たちが群れを成している。
「バルド殿……」
駆け寄ってきた若い騎士が、慌てて割って入ろうとした。 バルドと呼ばれたその男は、何代にもわたって北部の厳しい土地を耕し続けてきた、領内農民たちの頭領だった。
「下がってろ、若造! 俺は閣下の奥方に話があるんだ!」
バルドは私を鋭く睨みつけ、荒い息を吐き出した。
「王都のお貴族様が、泥いじりの真似事をしていい気になってるようだがな……この呪われた荒野を舐めるんじゃねえ! いま双葉が出たからって何になる! 来月になれば北の山から冬の瘴気嵐が吹き降ろすんだ! そんなひょろひょろの軟弱な草、一晩で黒ずんで腐り落ちるに決まってる!」
背後の農民たちからも、重苦しい賛同のざわめきが起こった。
「そうだ……この土地で野菜すらまともに育ったことがないんだぞ」 「気まぐれな思いつきに付き合わされて、水や石灰を運ばされる俺たちの身にもなってくれ」
彼らの言葉には、長年この不毛の地で飢えと寒さに苛まれ続けてきた者たちの、深すぎる絶望と不信が張り付いていた。
王都からやってきた身元の怪しい令嬢が、奇跡を振りかざして弄んでいるように見えたのだろう。
私は静かに立ち上がり、腰の泥を払った。 言葉で弁明する気はなかった。 土の上に生きる人間に通じるのは、理屈でも権威でもなく、目の前にある現実だけだ。
「バルドさん、でしたね」
「あぁ!? なんだ、言い訳でもする気か!」
「少し、手袋を外してこちらへ来ていただけますか」
私の落ち着いた声音に、バルドは毒気を抜かれたように眉をひそめた。 舌打ちをしながらも、男は無骨な手を露わにし、畝の前まで大股で歩み寄ってくる。
私は育苗床の中から、昨日選抜したばかりの交配試験株をひとつ、根を傷つけないよう土ごと丁寧に掘り起こした。
「これを、触ってみてください」
「……あ?」
不審そうに眉根を寄せながら、バルドが土の塊をその太い指先で受け止めた。 その瞬間、男の表情が硬直した。
「なっ……なんだ、この土は……!?」
「石灰で酸度を中和し、針葉樹の腐葉土を漉き込んで団粒を作りました。冷たい雨が降っても泥水になって詰まることはなく、適度な空気と水分を蓄え続けます」
バルドは息を呑み、指先で土をほぐした。 長年土を触り続けてきた農民だからこそ、その違いが瞬時に理解できたはずだ。
硬く締まって作物の根を締め殺すかつての死土とは、根本から別物に変わっていた。
「さらに、この苗の根を見てください」
私はそっと根元の土を払った。 露わになったのは、太く、白く、四方八方へと網の目のように力強く張り巡らされた根だった。
先端は赤く萎縮することなく、みずみずしい張りを保っている。
「王都の原種に、この荒野の北壁に自生していたヒカゲ草の耐寒性を交配させました。葉は寒冷地の突風に耐えるよう厚く硬く、根は地中深くの微細な魔素を余さず吸い上げるよう選抜してあります。冬の瘴気嵐が来ようとも、この根は決して土を離しません」
「ば、馬鹿な……! 王都の薬草と、あんな雑草を掛け合わせるだと……!? そんな話、聞いたこともねえぞ!」
「植物は、育つ環境に合わせて自ら姿を変える力を持っています。人がその手助けをしてあげるだけです」
私はバルドの目を見つめ、静かに、だが確信を込めて告げた。
「この土地は呪われてなどいません。ただ、土の声を聞く者がいなかっただけです」
「…………っ」
バルドの喉が詰まり、言葉を失った。 男はその場に膝をつき、掌の上の小さな苗を、まるで神聖な宝物でも見るかのように震える手で見つめた。
背後の農民たちも、青々と葉を広げる屈強な苗床を前にして、誰一人として声を上げることができなかった。
やがて、バルドはゆっくりと頭を垂れた。
「……すまねえ、奥様。俺の目が節穴だった。……どうか、俺たちにもその土の作り方を教えてくれねえか! この土地で、本当に作物が育つなら……俺たちにできることなら、何だってやる!」
「俺たちも手伝わせてください!」 「石灰でも腐葉土でも、いくらでも運んできます!」
農民たちが次々と膝をつき、懇願するように声を上げる。 疑念が信頼へと、絶望が希望へと転換した瞬間だった。
私は胸の奥が熱くなるのを感じ、張り詰めていた口元を緩めた。 自然と、心からの笑顔がこぼれ落ちる。
「はい、喜んで。皆さんの力を貸してください。一緒に、この荒野を一面の緑に変えましょう」
農民たちから歓声が沸き起こり、荒野の冷たい空気が、初めて温かな熱気で満たされていった。
その時だった。
ふと、肌を焦がすような強烈な視線を感じて、私は顔を上げた。 十数歩ほど離れた見張りの高台の麓に、カルディス閣下が立ち尽くしていた。
閣下は、農民たちに囲まれて笑う私の姿を、呆然とした蒼眸で見つめていた。 その左手は、自らの胸元の上着を強く掴み、爪が生地に食い込むほど握り締められている。
喉が渇いた獣のような、激しい独占欲。
だがそれ以上に、眩しすぎる光を前にして「自分にはそこへ足を踏み入れる資格がない」と己を責め苛むような、痛々しい苦悶の色がその表情に浮かんでいた。
「……閣下?」
私が小さく呟いた瞬間、視線が真正面からぶつかり合った。 閣下の瞳の奥に宿る、隠しようもない熱情。
ドクン、と私の胸が不意に大きく跳ね上がり、頬に微かな熱が走る。
閣下は息を呑み、逃げるように踵を返すと、大股で要塞の奥へと去っていってしまった。
残された私は、跳ねる心臓を落ち着かせようと、思わず作業着の胸元をぎゅっと押さえていた。
◇
正午過ぎ、王都から早馬を飛ばしてきた公文書便の使者が、要塞へと転がり込んできた。
「エレーナ・フォード殿へ、王都より親書でございます!」
砂埃にまみれた使者が差し出してきたのは、金箔の押し型が施された豪奢な封書だった。 差出人の名は――セオドア・グランヴェル。
周囲の騎士たちが眉をひそめる中、私は泥のついた指先を拭い、躊躇なく封を切り裂いた。
広げた紙面には、相変わらずの傲慢で尊大な筆跡が躍っていた。
『エレーナ。貴様が王立薬草園を去って以来、園内の作物が不調を極めている。ミレイアが心を痛めており、このままでは貴族院への納納期に間に合わぬ。
貴様が隠し持っている薬草の管理日誌、および土壌配合の記録を即刻王都へ差し出せ。あれらは元よりグランヴェル家の資産であり、追放された平民が私蔵してよいものではない。速やかに差し出せば、追放の減刑を考慮してやらぬこともない』
……呆れて、笑う気すら起きなかった。
自分の無能と怠慢で薬草を枯らしておきながら、反省するどころか、他人の血と汗の結晶を平然と奪おうとしてくる。
減刑などという餌をぶら下げれば、私が泣いて喜んで従うとでも思い込んでいるのだろうか。
「奥様、いかがなさいますか」 控えていた騎士が、懸念の眼差しを向けてくる。
「紙とインクをお借りできますか」
私はその場で、使者が持参していた返信用の一片の紙を受け取ると、立ったまま迷いなくペンを走らせた。 余計な修辞も、貴族らしい挨拶も一切省いた。
『王立薬草園の土の呼吸も、酸みの抜き方もご存じない方に、お渡しできる記録はありません』
ただそれだけを簡潔に書き殴り、インクが乾くのを待たずに折り畳むと、使者の胸元へと突き返した。
「これを、セオドア様へお持ち帰りください」
「は、はっ……!」 私の迷いのない冷徹な眼光に気圧された使者は、青ざめて一礼し、慌ただしく馬へ飛び乗って走り去っていった。
◇
数日後。 王都のグランヴェル筆頭公爵邸にある執務室で、凄まじい怒号が響き渡った。
「――なっ、なんだとぉっ!?」
セオドアは血相を変え、届いたばかりの返信の紙片を睨みつけた。 震える指先でその文面を何度も読み返し、怒りで全身をわなわなと震わせる。
「『土の呼吸も、酸みの抜き方もご存じない方にお渡しできる記録はない』だと……!? この俺に向かって、平民の分際で……なんという不敬を!」
「セオドア様、落ち着いてくださいませ……!」 傍らでミレイアが青ざめて取りすがろうとするが、激昂したセオドアはそれを乱暴に振り払った。
「ふざけるな! あのような泥臭い女が、誰のおかげで今まで飯を食えていたと思っているんだ!」
ビリッ、ビリビリッ!
セオドアは手の中の紙片を、狂ったように八つ裂きに引き裂いた。 舞い散る白い紙屑を踏みにじり、荒い息を吐きながら叫ぶ。
「後悔させてやる……! 泣いて許しを請うても、絶対に許さんぞ、エレーナ……っ!」
引き裂かれた紙の破片が無残に床へと散らばる中、王立薬草園の枯死の連鎖は、もはや誰の目にも隠しきれない破滅の秒読みへと突入していた。




