第4話「泥のついた手」
(――まだ、これでは土が十分に息をしていない)
擦り切れた作業着の膝をつき、私は掘り返した土を両手ですくい上げた。 指先を滑り落ちていく感触を確かめる。
石灰を混ぜ込んだことで、鼻を刺すような酸の刺激臭はあらかた消え失せていた。
だが、ただ酸を抜いただけの土は、まだ粒子が細かく締まりすぎていて、乾けばすぐに硬い板のようになってしまう。
植物の根が健やかに呼吸し、水分と魔素を巡らせるためには、大小の土の粒が適度な隙間を作る『団粒』が欠かせない。
立ち上がろうとして、手のひらに鋭い痛みが走った。 見れば、豆が幾重にも潰れ、赤く皮が剥けている。
伯爵令嬢だった頃の白く滑らかな肌は見る影もなく、連日の強い日差しと吹きさらしの風によって、浅黒く日焼けしていた。
だが、この痛みも日焼けも、私が大地と正面から向き合っている証拠だった。
「エレーナ様! 言われた通り、北の森から落ち葉を集めてまいりました!」
荷車を引いてきた若い兵士が、汗を拭いながら声をかけてくる。 あの日、カルディス閣下が自ら鍬を振るって以来、要塞の空気は一変していた。
私を「狂い令嬢」と嘲笑していた者たちも、泥だらけになって働く公爵夫妻の姿に打たれたのか、今では指示を仰ぎに駆け寄ってくるようになっていた。
「ありがとうございます。黒く発酵して崩れかけている部分だけを選別して、この畝全体に均等に鋤き込んでください」
「はっ!」
集めさせたのは、北方の針葉樹林の奥深く、雪の下で何年もかけて分解された天然の腐葉土だ。 これを混ぜ合わせることで土に隙間が生まれ、柔らかな団粒が形成される。
さらに私は、要塞の岩盤の割れ目から湧き出る清浄な冷水を引くため、自ら鍬を振るって細い水路を掘り進めた。 石灰、腐葉土、そして水。
どれひとつ欠けても、この死地を生き返らせることはできない。
腰を屈め、泥をすくい、溝を均す。 爪の間に黒い土が入り込もうとも、額から汗が滴り落ちようとも、手作業を止める気は毛頭なかった。
丹念に手をかけた分だけ、土は必ず応えてくれる。
人の心のように、嘘をついて裏切ったりはしないのだから。
だが、夕刻が近づいた頃、荒野の空気が急激に重く淀み始めた。
ゴオオオオッ……!
地鳴りのような唸り声とともに、遠くの空が不吉な赤紫色に染まっていく。 北の山並みを越えて吹き降ろしてきたのは、荒野特有の瘴気混じりの突風だった。
「まずい……! 瘴気風だ!」 「総員、屋内に退避しろ!」
見張りの兵士たちが叫び声を上げ、要塞の重い鉄扉が軋んだ音を立てて閉まり始める。 風は瞬く間に勢いを増し、乾いた小石や砂塵が礫となって肌を打ち据えた。
私は青ざめて畝を振り返った。 昨日、丹精込めて蒔いたばかりのルミナス草の種床が、猛烈な突風に晒されている。
まだ根を張っていない種子は、地表の土ごと根こそぎ吹き飛ばされてしまう。
ここを失えば、王都から持ち出せた唯一の原種が全滅してしまうのだ。
「しまわなきゃ……覆いを……!」
私は麻布を抱え、突風に向かって駆け出した。 吹き荒れる風圧に押し戻されそうになりながら、苗床の上に布を広げようとする。
だが、風はあまりにも強く、広げた端から布が激しくはためき、手から千切れそうになる。
砂塵が目に入り、視界が滲む。 赤黒い瘴気が鼻を突き、喉が焼けるように熱い。 それでも私は、這いつくばるようにして布の端を握りしめた。
渡さない。この命の種だけは、絶対に奪わせない――!
その時だった。
バサリ、と頭上を巨大な影が覆った。
「伏せていろ、エレーナ殿!」
激しい突風の轟音を貫いて、低く力強い声が鼓膜を叩いた。 見上げると、そこにはカルディス閣下が立っていた。
閣下は身にまとっていた分厚い漆黒の外套を大きく広げ、私の風上に仁王立ちになっていた。
黒鉄のような体躯で荒野の暴風を真正面から受け止め、私と、その足元にある小さな苗床を、己の影の中に完全にすっぽりと包み込んでいる。
「閣下……!? なりません、ここは瘴気が……!」
「喋るな。口を覆っていろ」
閣下は短く命じると、自らの長剣を地面深くに突き刺し、それを支えにしてさらに身を低くした。 バチバチと音を立てて、砂礫が閣下の背中や肩を容赦なく打ち据える。
赤黒い瘴気が渦を巻き、彼の銀髪を激しく乱していた。
逃げ場のない荒野の真ん中。 閣下は一歩も引くことなく、私と苗床を庇う強固な防壁となり続けていた。
暴風は夜に入っても衰えることを知らなかった。 凍てつくような漆黒の闇の中、吹き荒れる風の音だけが世界を支配している。
私は閣下の足元で、必死に苗床の土を掌で押さえ続けた。
頭上からは、風を耐え忍ぶ閣下の荒い呼気と、小石が外套を打つ鈍い衝撃が絶え間なく伝わってくる。
どうして、ここまでしてくれるのか。 契約の妻を死なせないため、それだけの理由で、領主たる身が命を削って肉の盾になるものだろうか。
――ただ、貴女の安全を。 ――二度と、あのような思いをさせぬために。
馬車の中で向けられた、あの痛ましいほどの自責の眼差しが脳裏をよぎる。 冷酷公爵などと呼んだのは誰なのか。
この人は、あまりにも不器用で、己を省みないほど真っ直ぐすぎるだけだ。
どれほどの時間が流れただろうか。 東の地平線が白み始めるとともに、吹き荒れていた突風が、嘘のように凪いでいった。
静寂が荒野に戻ってくる。 砂塵の霧が晴れ、冷涼な朝の空気が満ちていた。
「……終わったようだな」
掠れた声が降ってきた。 見上げると、カルディス閣下が突き立てていた剣を引き抜き、ゆっくりと息を吐き出していた。
その顔色は疲労で青ざめ、唇は寒さで紫色に変色している。
一晩中、一睡もせずに風上に立ち続けていたのだ。
「閣下、お怪我は……」
私が慌てて立ち上がろうとした時、足がもつれてバランスを崩しかけた。 とっさに閣下の硬い胸元に手をついてしまう。
「あ……申し訳、ございま――」
謝罪の言葉を紡ごうとした唇が、ぴたりと止まった。
至近距離で、閣下の蒼眸が私を見つめていた。 二人の呼気が白く混ざり合うほどの距離。
閣下の肩が大きく波打ち、胸の奥から響く熱い鼓動が、掌越しにはっきりと伝わってくる。
閣下は無言のまま、ゆっくりと右手の手袋を外した。 露わになった無骨で大きな手が、迷うように虚空を彷徨い、そして――そっと私の頬へと触れた。
「…………っ」
思わず息を呑んだ。 凍てつく外気とは裏腹に、閣下の掌は驚くほど熱かった。 その親指が、微かに震えながら、私の頬についていた泥を優しく拭い去っていく。
痛いほどに切実な熱を帯びた眼差しが、私の瞳を捉えて離さない。 荒野の真ん中で、世界から音が消え去ったかのような静寂。
触れられた肌から、ドクン、と胸を突くような激しい動悸が全身へと駆け巡っていく。
あまりの熱さに、息が詰まりそうだった。
「……無事で、よかった」
吐息のようにこぼれ落ちたその一言に、張り詰めていた閣下の理性が微かに揺らぐ。 我に返ったように閣下の手が離れ、彼は身を引いた。
「……すまない。見苦しい真似をした」
背を向け、呼吸を整えようとする閣下の耳元は、朝焼けの光とは違う熱で赤く染まっていた。 私は胸元を押さえ、乱れた呼吸を落ち着かせるのに必死だった。
◇
同じ頃、王都の王立薬草園では、張り詰めた空気が悲鳴とともに破裂していた。
「――なんですって!? 枯れたですって!?」
ミレイアの甲高い金切り声が、温室の中に響き渡った。 足元には、黒く変色し、見るも無惨に腐り落ちたルミナス草の株が転がっている。
一枚の葉すら残さず、ドロドロに溶け崩れていた。
「も、申し訳ございません……! 土の内部で根が腐敗し、もはや手の施しようが……!」
長年薬草園に仕えてきた老庭師長が、青ざめて膝をつく。 セオドアにこの惨状が知られれば、自分の立場が危うくなる。
恐怖と焦燥に駆られたミレイアは、顔を醜く歪めると、手袋を嵌めた手で老庭師長の頬を思い切り張り飛ばした。
パァンッ!
乾いた暴力の音が、温室に響き渡る。
「役立たずの無能どもが! 私の大切な薬草園に泥を塗る気!? エレーナがいなくなった途端にこれなんて、貴様たちが手を抜いているからに決まっているでしょう!」
ミレイアは肩を怒らせ、ヒステリックに怒鳴り散らした。 打たれた庭師長は、床に手を突いたまま唇を噛み締め、二度と顔を上げようとはしなかった。
周囲を取り囲む庭師たちの瞳からも、敬意の光は完全に消え失せ、冷え切った軽蔑と憤りの色だけが澱のように沈んでいった。
◇
朝日が昇り、荒野を黄金色に染め上げていく。
私は乱れた心を整え、風から守り抜いた苗床へと視線を落とした。 夜通しの守護のおかげで、土は吹き飛ばされることなく、適度な湿り気を保ったままそこに残っていた。
そして――。
「あ……」
思わず声が漏れた。
石灰で中和され、腐葉土がしっかりと馴染んだ黒褐色の土。 その微かな割れ目から。
朝露を抱いた翡翠色の小さな双葉が、凛として力強く、太陽に向かって顔を覗かせていた。




