第3話「最初の耕起」
ヒュウ、と耳元で風が鋭く鳴っていた。 乾ききった土煙が舞い上がり、黒ずんだ要塞の外壁に当たっては、サラサラと擦れるような音を立てて崩れ落ちる。
視界を埋め尽くしているのは、どこまでも続く灰白色の荒野だった。 地割れが幾重にも走り、所々に頭を覗かせる岩肌には、苔の一片すら張り付いていない。
私は麻の粗末なシャツの袖を捲り上げ、厚手の作業用ズボンの裾を革靴に押し込んだ。
屋敷の執事や侍女たちは、青ざめた顔で「どうか執務室でお休みを」「奥様が外へ出られるなど前代未聞です」と引き留めようとしたが、すべて断った。
帳簿の数字を睨んだところで、作物は一粒たりとも芽吹かない。 大地と向き合うには、己の足で土の上に立つ以外に道はないのだ。
しゃがみ込み、ひび割れた地表から土の塊をひとつ、指先でつまみ上げた。 指腹で強く押し潰してみる。
本来あるべき柔らかな団粒の隙間は微塵もなく、まるで焼き固められた陶器の破片のように硬い。
さらに鼻先へ近づけると、ツンとした特有の酸っぱい刺激臭が鼻腔を刺した。
足元にわずかに生えていた名もなき野草を一本、引き抜いて観察する。 細い根は先端が赤く萎縮し、焼けただれたように黒ずんでいた。
――典型的な、強酸性による根腐れ。
大地を巡る魔素が濁り、土中の成分バランスが極端に崩れている。 これでは、どんなに生命力の強い植物であっても、養分を吸い上げる前に自らの根を溶かしてしまう。
だが、絶望する必要はどこにもなかった。 原因が分かっているのなら、対処の手順は明白だ。
「……まずは、この酸の毒を抜くことからね」
私は立ち上がり、あらかじめカルディス閣下に手配を頼んでおいた物資へと歩み寄った。
荒野の端に積まれているのは、近隣の採石場から運ばせた大量の白い石――石灰岩の塊だ。
鉄槌を両手で握り締め、力任せに振り下ろす。 ガツン、と甲高い金属音が荒野に響き渡り、白い粉塵が舞い散った。
腕に走る痺れを無視して、何度も、何度も叩き割る。
細かく砕かれた石灰は、酸性を中和するための最良の資材となる。
「……おい、見ろよ」 「本当にあんなところで、平民の野良仕事を始めやがったぞ」
遠巻きに私を取り囲んでいた要塞の騎士や従僕たちから、嘲笑混じりの囁きが風に乗って聞こえてきた。
「公爵夫人が泥まみれで石を叩き割るなんて、正気とは思えん」 「大聖堂で追放された狂い令嬢だそうだ。王都の貴族が、この死地で畑作などできるはずがないだろうに」
「すぐに根を上げて屋敷へ逃げ戻るさ」
不審と侮蔑の視線。 だが、そんな雑音に気を取られている暇などない。 額に滲む汗を腕で拭い、砕いた石灰粉を麻袋に詰め、乾いた大地へと均等に撒いていく。
白い粉が地表を覆ったところで、私は立てかけてあった鉄の鍬を手に取った。 柄を握り直し、足を踏ん張って、硬い地面へ刃を突き立てる。
ガツッ。
鈍い衝撃が掌に跳ね返ってきた。 土が硬すぎる。 長年放置され、押し固められた大地は、女の腕力では容易に刃を受け入れてくれない。
それでも体重をかけ、呼吸を整え、一打一打、粘土状の層を砕くように鍬を打ち込んでいく。
「公爵夫人閣下! どうかおやめください!」
たまらず駆け寄ってきた初老の従僕頭が、悲鳴のような声を上げた。
「このような下賤な泥仕事を奥様にさせては、クレイヴン家の名折れでございます! どうかお屋敷へお戻りを!」
「私は公爵家の名誉のためにここにいるのではありません。この土地を拓くために来ています」
私は鍬を止めることなく、息を整えながら告げた。
「放っておいてください。私の身体が動く限り、この土を掘り起こします」
「し、しかし……っ!」
従僕頭が尚も食い下がろうとした、その時だった。
「――下がっていろ」
冷気を切り裂くような重厚な声が、背後から落ちてきた。
従僕たちと騎士たちが一斉に直立し、青ざめた顔で頭を垂れる。 現れたのは、カルディス閣下だった。
黒鉄の甲冑こそ身に着けていないものの、仕立てのよい濃紺の上着を風になびかせ、大股でこちらへ歩いてくる。
その双眸は、口を挟もうとした配下たちを一瞥しただけで完全に射竦めていた。
止めに来たのだろうか。 やはり、いくら契約とはいえ、妻となった女が人前で泥にまみれるのは耐え難い屈辱だったのか。 私は鍬の柄を握り直した。
もし引きずり戻そうとするのなら、私は契約を破棄してでも――。
だが、閣下の行動は、私の予想を完全に裏切るものだった。
閣下は無言のまま、身にまとっていた上着のボタンを外すと、それを無造作に足元へ脱ぎ捨てた。 さらに、両手の黒革の手袋を外す。
大聖堂で己の爪を食い込ませていた掌には、まだ痛々しい赤黒い傷跡が残っていた。
白のシャツ一枚になった閣下は、私の足元に置かれていた予備の鍬へと視線を落とし、それから私を見た。
「……それを、貸していただきたい」
「……え?」
意味が呑み込めず、私が固まっていると、閣下は静かに手を伸ばしてきた。 私は無意識に、手にしていた鍬の柄を閣下へと差し出す。
その時。
冷え切った閣下の指先が、私の泥で汚れた指の甲に触れた。
「…………っ!」
閣下の肩が、まるで灼熱の鉄に触れたかのようにビクリと跳ねた。 喉の奥で息を呑む音が、驚くほどはっきりと聞こえる。
触れ合った皮膚から、彼の微かな震えが伝わってくる。
閣下は目を瞠り、それから激しい動悸に耐えるかのように喉仏を大きく上下させると、弾かれたように視線を逸らした。
「す、すまない……無礼を……」
掠れた声で呟きながら、閣下は鍬の柄をしっかりと握り直した。 耳朶がわずかに赤く染まっている。
だが、その鋭い横顔は、すぐに戦場に立つ武将のそれへと戻っていた。
ザシュッ!
凄まじい風切り音とともに、鉄の鍬が深々と大地へ突き刺さった。
私が全身の体重をかけても数センチしか入らなかった硬い土壌が、閣下の一撃によって軽々と跳ね上げられる。
「閣下……!?」
従僕頭が絶句して叫んだ。 北の最高権力者である公爵が、自ら上着を脱ぎ捨てて泥を掘り返しているのだ。
周囲を取り囲んでいた騎士たちも、呆然として口を開けたまま立ち尽くしている。
だが、閣下は周囲の視線など意にも介さず、無言で鍬を振り下ろし続けた。 無駄のない筋肉の動き。
一打ごとに深く耕され、撒かれた白い石灰粉が、下層の硬い粘土と力強く混ざり合っていく。
「……何をしている、エレーナ殿」
鍬を打ち込む手を止めず、荒い呼気を吐きながら、閣下が横顔のまま私に言った。
「貴女一人に、この荒野を背負わせるわけにはいかない。……口出しはせぬと誓ったが、手伝うなとは言われていないはずだ」
不器用な、あまりにも不器用な言葉だった。 北の冷酷公爵が、泥飛沫をその整った頬に飛ばしながら、私の隣で必死に土を耕している。
胸の奥で、何かが小さく解けるような感覚があった。 私は唇を引き結び、落ちていたもう一本の鍬を拾い上げた。
「……石灰と土が均等に混ざるよう、二尺の深さまで掘り下げてください。私が後から塊を砕きます」
「承知した」
閣下が短く応じ、二本の鍬の音が、規則正しいリズムとなって荒野に響き始めた。
◇
その頃、王都にある王立薬草園の広大な敷地では、セオドアが苛立ちを露わにして歩き回っていた。
「……おい! これはどういうことだ!」
セオドアの怒声が、ガラス張りの温室に反響する。 指差された畝には、青々としているはずのルミナス草が植えられていた。
だが、その葉先は不自然に茶色く縮み、黄色い斑点が広がっている。
「申し訳ございません、セオドア様……!」 青ざめた庭師たちが、床に額を擦り付けて震えていた。
「毎日の水やりも、指定された肥料も欠かさず与えております! ですが、なぜか土が水を吸わず、根が息をしていないようで……!」
「無能どもめが! ミレイアが毎日祈りを捧げているというのに、貴様らの管理が行き届いていないからだ!」
セオドアは吐き捨てるように怒鳴り散らした。 だが、頭を下げた庭師たちの間では、怯えとともに冷ややかな囁きが交わされていた。
「……祈りで薬草が育つわけがないだろう」 「前任のエレーナ様は、毎日自ら土を掘り返し、手作りの水を撒いておられた……」
「あの指示書がないと、この土はもう保たないぞ……」
庭師たちの疑念の視線に気付くこともなく、セオドアは忌々しげに縮れた葉を靴底で踏みにじった。
◇
荒野の作業が一段落した頃には、西の山並みに赤い夕陽が沈みかけていた。
吹き荒れていた風は止み、目の前には、見違えるように整えられた畝が広がっていた。
白く乾ききっていた大地は、丹念に石灰を混ぜ合わされ、深く掘り返されたことで、しっとりとした黒褐色の土へと姿を変えている。
まだ完全に団粒が形成されたわけではないが、根を焼き尽くす酸の気配は、確実に和らいでいた。
私は作業着のポケットから、大切に革袋に入れて持ち込んだものを取り出した。
王都を出る際、私の私物として唯一持ち出すことを許された、ルミナス草の原種苗から選抜した種子だ。
しゃがみ込み、耕された柔らかな土に、指で小さな穴を穿つ。 そこに、白銀の光を微かに帯びた小さな種を一粒、丁寧に落とし入れた。
「……息をして、根を伸ばしてね」
そっと土を被せ、掌で優しく押さえる。 不毛と恐れられた呪われた荒野に、反撃の最初の一粒が、確かに蒔かれた瞬間だった。




