第2話「荒野への馬車」
「待たれよ、エレーナ殿」
低く、深く響く声が、石畳を踏む私の足を止めさせた。
大聖堂の外縁、馬車寄せへと続く並木道。 木枯らしが黄色く枯れたポプラの葉を巻き上げる中、私は静かに振り返った。
そこに立っていたのは、クレイヴン公爵カルディス閣下だった。 黒鉄の胸当てに、黒狼の紋章が刻まれた重厚な外套。
無駄のない歩調で間合いを詰めてくるその姿は、戦場を支配する猛獣そのものの威圧感を放っている。
だが、その鋭い蒼眸は、獲物を狙う獣のそれとはまるで違っていた。 射抜くような強さの奥に、焼きごてを押し当てられたかのような、痛ましい焦燥が滲んでいる。
私は貴族としての礼法を保ち、わずかに腰を落として頭を下げた。
「……クレイヴン公爵閣下。私のような平民放逐の身となった者に、何かご用でしょうか」
すでに爵位継承権を剥奪された身だ。 本来であれば、公爵家の当主と言葉を交わすことすら不敬に当たる。
だが、閣下は私の礼を遮るように、微かに眉を寄せて息を呑んだ。
「そのような頭を下げる必要はない。……私を、これ以上恥じ入らせないでいただきたい」
絞り出すような声音だった。 カルディス閣下は私の眼前で足を止めると、黒革の手袋を嵌めた手を胸元に当てた。 先ほど大聖堂で己の爪を食い込ませていた方の手だ。
手袋の端に広がったわずかな血の滲みが、私の網膜に焼き付いている。
「先刻の大聖堂での無礼、深く詫びる。……私は、他領の内政に干渉できぬという法と、防衛条約の立ち会いという立場に縛られ、あの場で貴女を弁護することも、あのような愚行を止めることもできなかった」
「公爵閣下が悔やまれることではございません。あれはフォード家の内紛であり、元婚約者との私的な破棄にすぎませんから」
私は淡々と、余計な抑揚をつけずに答えた。 私を信じなかったのはセオドアであり、私を陥れたのは実の妹と両親だ。
北方防衛を担う閣下に、責めを負ういわれなど何一つない。
だが、閣下の双眸に宿る影は、私の平然とした態度によってさらに深まったようだった。
「法が貴女の身分を奪ったのならば、私もまた法を以て貴女を保護する。……エレーナ殿、私と婚姻を結んでいただきたい」
木枯らしの音が、一瞬だけ耳の奥で途切れた気がした。
「……婚姻、ですか」
「北部辺境領主には、領内に流入する放逐者の強制身元引受権――『辺境領主特命権』が国王より付与されている。さらに、非常時婚姻特権を行使すれば、王都の裁可を待たず、即座に法的な婚姻を成立させることが可能だ」
カルディス閣下は一息に、澱みなく制度を並べ立てた。 まるで、大聖堂で私が指輪を床に置いたその瞬間から、頭の中で幾度も確認し、構築してきたかのように。
「貴女をクレイヴン公爵夫人として迎え入れる。グランヴェル家もフォード家も、北部公爵家の領内にある貴女には、指一本触れさせることは叶わない」
突拍子もない申し出だった。 王都の誰もが恐れ、近寄ることすら躊躇う「北の冷酷公爵」が、罪人として放逐された女に求婚しているのだ。
これが社交界の耳に入れば、どのような騒ぎになるか想像もつかない。
だが、私の心に生じたのは、喜びでも安堵でもなかった。 冷たい警戒心だ。
人は理由もなく手を差し伸べたりはしない。 セオドアもかつては甘い言葉を囁きながら、私の生み出す薬草の利権に群がった。
妹のミレイアは家族の情を装いながら、私の居場所をすべて奪っていった。
「……閣下。私にはもう、貴族としての財産も、生家の後ろ盾もございません。あるのは毒殺未遂という不名誉な汚名と、泥をいじる技術だけです。私を妻にして、公爵家に何の利益があるというのですか」
「利益など求めていない」
即座に返された言葉は、驚くほど低く、硬かった。
「……私が求めているのは、貴女の安全だ。あの場で何もできなかった己の無力さを、私は生涯許すことができない。貴女をあのような死地へ、無防備なまま送り出すことなど、断じてできぬ」
閣下の瞳の奥に、痛烈な自責の炎が燃え盛っていた。 嘘をついているようには見えない。
むしろ、自身を罪人であるかのように断じ、理性をすり減らしているようにさえ見えた。
けれど、私はもう、他人の感情に身を委ねるつもりはなかった。 誰かの罪悪感や憐憫にぶら下がって生きるくらいなら、野垂れ死んだ方がましだ。
「お言葉ですが、閣下。私は守られるためだけに、新たな檻に入るつもりはございません」
私は視線を逸らさず、閣下の蒼眸をまっすぐに見据えた。
「形式だけの妻であること。そして――私が北部の荒野を開拓し、土を耕すことに対し、閣下をはじめとする何人からも一切の口出しを受けないこと。現場の全権を私に委ねていただけるのなら、その契約をお受けいたします」
貴族の令嬢が泥にまみれることを、王都の人間は病的なまでに忌み嫌った。
もし閣下もまた、私を「公爵夫人」という飾り窓に押し込め、土に触れることを禁じるのなら、どれほど過酷であろうと一人で荒野へ行く道を選ぶ。
閣下はわずかに目を見張り、それから、ふっと口元を緩めた。 自嘲するような、だがどこか敬虔な響きを帯びた吐息が漏れる。
「……無論だ。貴女が鍬を振るおうと、何を植えようと、私の領内において貴女の意思は絶対だ。必要な道具も、土も、人手も、すべて貴女の意のままに動かそう」
「契約成立、ですね」
「ああ。私の命にかけて」
閣下が身を引くと、背後の並木道から、一台の馬車が静かに滑り込んできた。 放逐された平民が詰め込まれる檻のような粗末な荷馬車ではない。
黒鉄の補強が施された、頑丈で豪奢なクレイヴン公爵家の紋章馬車だった。
御者が静かにステップを下ろす。
カルディス閣下は、私の前に進み出ると、右手をすっと差し出した。 黒革の手袋に包まれた大きな手。
私を馬車へとエスコートするための、貴族の礼法に則った所作だ。
だが、その指先は――。 恐れ多いものに触れようとするかのように、かすかに、小刻みに震えていた。
私はその手を見つめ、それから静かに視線を外した。
「失礼いたします」
私は閣下の手を取ることなく、ドレスの裾を少しだけ持ち上げ、自らの足でしっかりと木製のステップを踏みしめて馬車へと上がった。
その瞬間。
「…………っ」
背後で、カルディス閣下が喉を詰まらせ、息を止める気配がした。
虚空に残された閣下の手が、行き場を失って固まり、それから激しい痛みに耐えるかのように、ゆっくりと握りしめられていく。
その横顔には、胸を刃で抉られたかのような深い落胆と寂寥が張り付いていた。
私はそれ以上振り返らず、車内の革張りの座席へと腰を下ろした。
手を取り合って笑い合うような関係ではない。 これはただの利害の一致による契約だ。 彼が抱える罪悪感の重さを、私が肩代わりしてやる筋合いなどないのだから。
◇
その頃、大聖堂から馬車で半刻ほどの距離にある王立薬草園では、ミレイアが高らかな笑い声を響かせていた。
「ふふっ、見ましたかセオドア様? あのお姉様の惨めな顔! 指輪を投げ捨てるなんて、負け惜しみもいいところですわ!」
豪奢なフリルの日傘をくるくると回しながら、ミレイアは整備された薬草園の遊歩道を歩いていた。
隣を歩くセオドアも、先ほどまでの不快感を振り払うように満足げに頷く。
「全くだ。身の程知らずの悪女には相応しい末路だ。これからは名実ともに、この薬草園はお前と俺のものだ」
「ええ、セオドア様! このルミナス草の花が咲けば、王都中の貴族が私を称えることになりますわ!」
ミレイアは艶やかな笑みを浮かべ、青々とした葉を広げる薬草の畝に視線を落とした。 だが、彼女は気付いていなかった。
エレーナが毎朝、夜明け前から何時間もかけて仕込んでいた特製の活性水が、すでに園内の水瓶から完全に底をついていることに。
そして、エレーナの手による丹念な攪拌を失った土壌が、表面からわずかに白く乾き、団粒の隙間を失って、まるで石のように硬化し始めていることに――。
◇
公爵家の馬車は、王都の重厚な北門を抜け、街道を北へとひた走っていた。
車内には重苦しい沈黙が満ちていた。 向かいの座席に腰掛けるカルディス閣下は、彫像のように微動だにせず、ただ車窓を流れる寒々しい景色を見つめている。
私に話しかけることも、視線を合わせることすら、己に禁じているかのようだった。
日暮れが近づくにつれ、車内の温度は目に見えて下がり始めた。 王都を出てわずか数日。
北上するにつれて木々の緑は失われ、乾燥した冷気が窓の隙間から容赦なく忍び込んでくる。
薄手のドレス一枚で追放された私の身体は、いつの間にか冷え切り、指先がかじかんでいた。 無意識に両腕を抱え、身を縮めたその時だった。
「……これを」
低く抑えられた声とともに、目の前に厚手の毛布のようなものが差し出された。 銀黒色の見事な毛皮が縫い込まれた、カルディス閣下自身の外套だった。
「閣下、しかしこれは――」
「私は寒さには慣れている。……貴女に風邪を引かせるわけにはいかない」
閣下はそれ以上何も言わず、外套を私の膝の上へとそっと置いた。 触れた瞬間、じんわりとした温もりが指先から伝わってくる。
冷酷無比と恐れられる男の体温が宿った、驚くほど重く、柔らかな暖かさだった。
「……ありがとうございます」
私が小さく礼を言うと、閣下はわずかに視線を揺らし、それから小さく頷いて、再び窓の外へと顔を背けた。 不器用なまでの距離の取り方。
その横顔には、やはり消えることのない負い目が貼り付いていた。
車輪が凍てついた街道を軋ませながら、さらに数日が過ぎた。
やがて馬車の速度が落ち、ゆっくりと停車する。
「エレーナ殿、着いた」
閣下の声に促され、私は外套を羽織り直して馬車の扉を開けた。
外へ降り立った瞬間、皮膚を切り裂くような乾いた風が吹き抜けた。 目の前に広がっていたのは、見渡す限りの絶望の光景だった。
草木の一本すら生えていない、白くひび割れた大地。 遠くの地平線からは、陽光を遮るように赤黒い瘴気がゆらゆらと立ち上り、鼻を突く酸の刺激臭が大気に満ちている。
これが、人を拒絶する最果ての死地――「呪われた荒野」だった。




