第1話「誓いの指輪」
私は、石畳の床の上に視線を落としたまま、ただ静かに息を整えた。
大聖堂の高い穹窿に、怒声を帯びた男の声が反響している。
張り詰めた冷気の中、無数の貴族たちの視線が、まるで針のように私の全身へと突き刺さっていた。
「白を切り通すつもりか、エレーナ! ミレイアが口にしたハーブティーから、確実に麻痺性の毒が検出されたのだぞ! 妹の才能を妬み、あまつさえその命を奪おうとするなど……言語道断の悪辣さだ!」
壇上から私を指弾するのは、筆頭公爵家の嫡男であり、私の婚約者であるセオドア・グランヴェルだった。
端整な顔立ちを憤怒に歪め、金糸の刺繍が施された豪奢な上着を揺らしている。
その隣には、か弱い小鳥のように震える私の妹、ミレイアが寄り添っていた。
「お姉様……どうして、そんな……。私が薬草園の管理を任されるようになったからって、私を恨んでいたのですか……? 私、ただお姉様のお役に立ちたかっただけなのに……っ」
ミレイアは琥珀色の瞳に大粒の涙を溜め、胸元を押さえながらセオドアの腕にすがりついた。 計算され尽くした儚げな仕草に、周囲の貴族たちから同情の吐息が漏れる。
「可哀想に、ミレイア様……」 「なんと浅ましい姉だ。王立薬草園の成果を横取りされたと思い込んでの凶行か」
「土いじりばかりにかまけていた陰気な女だ。いずれこのような大罪を犯すと思っていた」
ひそひそとした囁き声が、大聖堂の冷えた空気を澱ませていく。
私は唇を引き結び、心の中で小さく息を吐いた。 毒など盛るはずがない。
そもそも、ミレイアが倒れたとされる時刻、私は王立薬草園の第三区画で、泥にまみれながら排水溝を掘り直していたのだ。
前世で植物育種学と農業土壌学を研究していた記憶を持つ私にとって、この国の農業技術の拙さは看過できるものではなかった。
大地に滞留する微細な魔素と、土壌の酸度。
その調和が崩れれば、どれほど高価な種を蒔こうと作物は枯死する。
かつて不毛同然だった王立薬草園を蘇らせ、特効薬草の量産に成功したのは、私が何年もの歳月を費やして酸性を抜き、土を耕し続けたからだった。
だが、その成果が社交界で認められた途端、手柄はすべて「心優しい妹ミレイアの祈りと采配」として奪われた。 ミレイアが薬草の土に一度たりとも触れたことなどない。
彼女は爪が汚れることすら忌み嫌い、作業の指示書を清書しただけの紙を掲げて、貴族たちの称賛を浴びていただけだ。
そして今、妹の自作自演の服毒狂言によって、私は毒殺未遂の犯人に仕立て上げられている。
「何か申し開きはあるか! エレーナ!」
セオドアが壇上から見下ろしてくる。 その瞳の奥には、私を屈服させ、己の正しさを誇示したいという傲慢な光が宿っていた。
私は彼を見つめ返した。 感情を交えず、ただ事実を確かめるように、静かに口を開く。
「……セオドア様。私が調合したとされるその毒草は、王立薬草園のどの区画で採取されたものですか」
「なっ……知るか! 騎士団が屋敷のゴミ捨て場から発見したのだ! お前の部屋の裏庭にな!」
「その草は強酸性の土壌でしか自生しません。屋敷の庭の土質では、根付くことすら不可能です。さらに言えば、毒性を抽出するには生乾きの状態で蒸留せねばならず、私の部屋にはそのような器具は一切ございません」
淡々と告げた私の言葉に、セオドアの眉が跳ね上がった。
「黙れ! 小賢しい屁理屈を並べ立てるな! ミレイアが現に苦しみ、医師の診断書もここにあるのだぞ! これ以上、見苦しい言い逃れをするというのか!」
話にならない。 最初から、真実など誰も求めていないのだ。
セオドアは、常に自分の意のままに従い、甘えた声で自尊心を満たしてくれるミレイアを正室に迎えたい。
私の生家であるフォード伯爵家もまた、社交界の花形となった次女を公爵家へ嫁がせるため、土臭い長女を切り捨てる腹積もりなのだ。
ふと、大聖堂の列柱の影に、異様な威圧感を放つ一団がいるのが見えた。
黒鉄の甲冑に身を包んだ、北方防衛を担う「黒狼騎士団」。 その中心に立っているのは、北部辺境伯にしてクレイヴン公爵家の当主、カルディス・クレイヴン閣下だった。
氷の刃を思わせる銀色の髪に、射抜くような鋭い蒼眸。 王都の誰もが「北の冷酷公爵」と恐れる人物だ。
先ほど調印されたばかりの北部防衛条約の立ち会いのため、この場に居合わせているはずだった。
他領の内政不干渉。
厳格な法廷侮辱罪が定められているこの国において、フォード伯爵家の家内問題であり、婚約の係争であるこの場に、他領の領主が介入することは許されない。
カルディス閣下は、彫像のように直立したまま、壇上の私を凝視していた。 だが、その威厳に満ちた佇まいの裏で――。
視界の端で、私は捉えていた。 黒革の手袋を嵌めた彼の拳が、微かに震えるほど強く握りしめられているのを。
食い込んだ己の爪が、手袋の縫い目を押し破り、滲み出た鮮血が黒い革を濡らしているのを。
噛み締められた唇から、今にも漏れ出しそうな苦悶と無念。 どうして、この方がそのような顔をされるのか。
私と閣下の間に、これまで直接の関わりなど一度もなかったはずなのに。
けれど、その拳から伝わってくる痛烈な悔恨が、私の冷え切った胸の奥に、不思議な確かさとなって落ちてきた。
――もう、十分だ。
何を訴えても、この者たちには届かない。 私の言葉は、最初から一枚の薄紙ほどの重みすら与えられていなかったのだ。
「……セオドア様」
私は澄んだ声で、まっすぐに彼の名を呼んだ。 セオドアが鼻を鳴らし、勝ち誇った笑みを唇の端に浮かべる。
「ようやく己の罪を認める気になったか」 「いいえ」
私は静かに首を横に振った。
「弁明をやめます。私の言葉を信じる意思のない方に、これ以上費やす時間はございません」
私は左手を持ち上げた。 細い薬指に嵌められていたのは、グランヴェル公爵家の紋章が刻まれた銀の指輪。
三年前に婚約が成立した日、形式的に与えられただけの冷たい金属だ。
私は迷うことなく、その指輪を指から引き抜いた。
「なっ……何を……」
セオドアが目を丸くする。 ミレイアの嘲笑が、驚愕によってピキリと凍りついた。
私は一歩も退かず、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、指先を離した。
カチリ。
高い硬質な音が、静まり返った大聖堂に響き渡る。 放たれた指輪は、冷たい灰色の石畳の上を転がり、セオドアの足元から数歩離れた場所で静止した。
「エレーナ……っ、貴様、何を血迷った真似を……!」 「婚約を解消いたします。これ以上の侮辱を受ける謂れはございません」
壇上のセオドアが、喉を「ぐっ」と詰まらせて息を呑んだ。 思い通りにいかない。泣き叫び、許しを乞うはずだった女が、涙一つ見せずに己を切り捨てた。
その不気味さと異様さに、セオドアの喉仏が引きつったように上下する。
会衆がざわめき、怒号と困惑の声が混ざり合って天井を揺るがした。
「公爵家から賜った誓いの指輪を、床に投げ捨てるなど……!」 「正気か!? 反逆にも等しい暴挙だ!」
セオドアは顔を真っ赤に染め上げ、震える指先で私を指弾した。
「貴様のような不敬な悪女、もはや王都に置いておくわけにはいかん! 爵位継承権の剥奪、平民への放逐だ! 行き先は北部の国境……草木一本育たぬ『呪われた荒野』へ追放処分とする!」
呪われた荒野。 強酸性の土壌と濃密な瘴気が立ち込め、追放された罪人が飢えと病で命を落とすと言われる最果ての死地。
ミレイアが、セオドアの胸元に顔を埋めながら、隠しきれない嘲りの笑みを浮かべていた。 姉はこれで終わりだ、二度と戻ってはこられない、と。
だが、私の心に広がっていたのは、絶望ではなかった。 むしろ、重苦しい鉛の足枷を自ら叩き割ったような、背筋の伸びる冷徹な解放感だった。
草木が育たない荒野。 それは単に、土地の性質を理解し、正しく土を耕す者がいなかったというだけのことだ。
人の悪意と虚飾にまみれたこの王都で、泥を塗り固めたような嘘に付き合わされるより、どれほど清々しいことだろう。
「謹んで、その処分をお受けいたします」
私は乱れのない完璧な礼法で頭を下げた。 床に転がる指輪には、二度と視線を向けない。
騒然とする会衆を置き去りにし、私は踵を返した。 石畳を踏みしめる靴音が、規則正しく大聖堂に響く。
背中に浴びせられる罵詈雑言の嵐を抜け、重厚な扉を押し開けて外へ出た。
秋の冷たい風が、私の頬を撫でていく。 どこまでも広がる空は、どこか白く霞んでいた。
馬車寄せへ向かおうと回廊を歩き出した、その時だった。
背後の薄暗い影から、迷いのない重い足音が、急速に私の背を追ってくる気配がした。




