第10話「荒野に咲く奇跡」
(――土は、決して嘘をつかない)
風に揺れる銀色の花弁にそっと指先を滑らせながら、私は胸の奥でそう呟いていた。
見渡す限りの丘を、白銀の波が埋め尽くしている。 かつて人を拒絶し、赤黒い瘴気が渦巻いていた「呪われた荒野」の姿は、どこにもなかった。
頭上には抜けるような高い青空が広がり、冷涼な風が吹き抜けるたび、ルミナス草の放つ清らかな甘い香りが、大地いっぱいに満ちていく。
石灰で酸の毒を抜き、腐葉土で土に命の息吹を与え、種を蒔き、夜通しの風から守り抜いた。
泥にまみれ、豆を潰しながら耕し続けた日々が、いま、この圧倒的な奇跡の光景となって結実していた。
万能薬の量産により、王都を襲った瘴気熱の猛威も、北から送られた薬液によって次第に沈静化へ向かっているという。
だが、その栄光の輪の中に、私を陥れた者たちの姿は二度と存在しなかった。
◇
北部の最果て、凍てつく風が吹き荒れる鉱山開拓地の最前線。
「ぐ、あぁっ……重い……! こんなの、持てるわけがないだろう……!」
泥水の中に膝をつき、セオドアは涙と鼻水を流して呻いていた。
かつて豪奢な刺繍の上着を纏っていた男の身体には、いまや擦り切れた粗末な囚人服がまとわりついている。
背負わされた重い籠には、採掘された硬い岩石が山盛りに積まれていた。
「何を遊んでいる! 手を止めるな、罪人セオドア!」
背後から容赦ない看守の怒号が飛び、革の鞭が地面を叩いて泥水を跳ね上げた。 セオドアは悲鳴を上げて身を縮め、這いつくばるようにして泥水をすする。
「お、俺はグランヴェル家の嫡男なんだぞ……! 誰か、父上を呼んでくれ……! エレーナ、助けてくれぇっ……!」
掠れた叫びは、冷たい北風にかき消されるだけだった。 彼がどれほど泣き叫ぼうと、手を差し伸べる者は誰一人として現れない。 生涯にわたる過酷な土木労役。
かつて見下し、嘲笑った「下賤な泥仕事」を、彼は死ぬまで己の肉体ですすり続けねばならなかった。
そして同じ頃、王都の外縁に建つ隔離病棟救護院。
「いやぁぁぁっ! 汚い! こんなもの触りたくないわ!」
ミレイアの絶叫が、陰鬱な病室の片隅に響き渡っていた。 だが、その金切り声に応える者はおらず、古参の修道女から容赦なく冷たい水桶と雑巾が突きつけられる。
「喚かないでお掃除をお続けなさい、ミレイア。貴女の罪は、この救護院のすべての汚物を清め、病に伏せる方々の世話をしてようやく償えるものなのですから」
「お姉様……! エレーナお姉様ぁぁっ!」
ミレイアは髪を振り乱し、あかぎれと黒ずみでボロボロになった両手で顔を覆って泣き崩れた。
かつて誇っていた美貌は見る影もなくやつれ果て、社交界の寵児だった面影は微塵もない。
どれほど涙を流そうとも、その偽りの涙を憐れんでくれる男はもうどこにもいなかった。
◇
丘を吹き抜ける風が、私の髪を優しく撫でていく。
かつて私を縛り付けていた悪夢のような過去は、完全に過去の彼方へと消え去っていた。 もはや胸に刺さる棘は一つもない。
「……エレーナ」
静かに名を呼ばれ、私は振り返った。
そこに立っていたのは、カルディス閣下だった。 正装である濃紺の礼服を纏い、マントを翻して歩み寄ってくる。
その双眸には、もはや出会った頃のような、痛ましい自責の影はなかった。
ただ、澄み切った北部の空のように深い、揺るぎない熱情だけが宿っていた。
「閣下……」
私が微笑みかけると、閣下は花畑の真ん中で足を止め、そして――。
白銀のルミナス草が揺れる草地の上で、静かに、優雅に片膝をついた。
「閣下!?」
驚いて声を上げた私を見上げ、閣下は懐からひとつの小箱を取り出した。 開かれたビロードの蓋の奥に収まっていたのは、一筋の光を浴びて青く煌めく指輪だった。
北部の夜空をそのまま切り取ったような、深く澄んだ蒼穹の守護石。 かつて大聖堂で床に投げ捨てた、公爵家の形式的な銀の指輪とはまるで違っていた。
そこには、持ち主の尊厳と誇りを何よりも重んじる、純粋な祈りが宿っているようだった。
「エレーナ」
カルディス閣下の声が、静かに丘の風に乗って響く。
「大聖堂で君を救えず、負い目から始まった契約の婚姻だった。君を縛らぬよう、傷つけぬよう、ただの盾であろうと己に言い聞かせてきた。……だが、もう自分に嘘をつくことはできない」
閣下の瞳が、熱い光を湛えて私を捉える。
「君が泥にまみれて荒野を拓く姿に、私は魂を奪われた。君の誇り高さに、その折れぬ強さに、私は救われたのだ。……君がいなければ、この北部も、私自身も、暗闇の中で凍え死んでいただろう」
力強い指先が、小箱から指輪を摘み上げる。
「契約の妻ではなく、私の生涯唯一の愛する人として……私の隣にいてくれないだろうか。君の歩む道を、命の尽きるその時まで、君の夫として共に歩ませてほしい」
二人の間にあった「契約」という名の最後の防壁が、音を立てて完全に消え去っていく。 もう、負い目のための婚姻ではない。
誰の顔色を窺うこともなく、私自身が選び取る未来が、目の前に差し出されていた。
胸の奥から、温かな熱がとめどなく溢れ出してくる。 私は迷うことなく、自らの右手をすっと前へと差し出した。
開墾の痕跡がまだ微かに残る、泥を耕して勝ち取った誇り高い私の手を。
「喜んで、お受けいたします。……カルディス様」
初めて口にした、敬称を省いた彼の名。
その瞬間、カルディス様の瞳が大きく揺らぎ、見る間に涙の膜が張っていった。
普段の峻厳な公爵の顔からは想像もつかないほど、少年のように無防備で、愛おしさに満ちた微笑みがその唇に浮かぶ。
「……ありがとう、エレーナ」
震える指先で、カルディス様は私の薬指へと蒼い指輪を滑り込ませた。 ひんやりとした宝石の奥から、彼の体温がじんわりと肌に染み渡っていく。
立ち上がったカルディス様の両腕が、力強く私を抱き寄せた。 引き寄せられた胸元から、激しく脈打つ彼の鼓動が伝わってくる。
「愛している、エレーナ。何があろうと、世界中を敵に回そうと、君を愛し抜く」
囁かれた熱い誓いとともに、カルディス様の顔が重なった。 触れ合った唇から、深く、息が止まるほど甘い熱が注ぎ込まれていく。
慈しむように、確かめるように重ねられる長い口づけに、私はそっと瞳を閉じ、彼の首筋へと腕を回した。
泥臭く歩んできた道が実を結んだ、本物の居場所。 すべてを捧げて自分を愛してくれる、かけがえのない腕の温もり。
祝福するように、風が吹き抜けた。 一面の白銀の花畑がさざ波のように光を放ち、二人の頭上を、無数の銀の花びらが青空へと舞い上がっていった。
(完)
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