第一話 二万発、抱えて走れ
その夜、私は東京湾の花火大会を、ビルの十七階から見下ろしていた。残業の、ついでに。
うちの会社は海側にあって、夏の金曜は窓際の席が争奪戦になる。けど私、三浦紫織里は入社二年目の事務職で、そんな順番は回ってこない。だから誰もいなくなったフロアで、コピー機の横の非常階段から、こっそり見ていた。
膝を抱えて、ガラスに額をつけて。
ぽん、と遠くで音がして、赤い牡丹が夜空に開いた。きれい、と思った。ぽん、ぽん、と続けて二発。青の菊と、金の柳。
湾岸のビル群の隙間から、花火だけが見えていた。会場のアナウンスも、屋台の匂いも、人混みも、全部遠い。ただ、夜空に咲く色だけが、私の目に届いていた。
いいなあ、と思った。下で見ている人たちは、きっと浴衣で、きっと誰かと一緒で、きっとスマホで動画を撮っている。私は、ジャケットの袖で膝を抱えて、一人で見ている。
それでも、花火はきれいだった。きれい、だと思った次の瞬間――
ぽん。
私の手のひらに、赤い牡丹が咲いた。
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――え。
指先から、火花が散っていた。熱くない。でも、光っている。手のひらの上で、直径十センチくらいの、小さな花火がしゅるしゅると回っている。湾岸の空に咲いたものと、寸分違わぬ紋様で。
その隣で、今度は青の菊が咲いた。金の柳も咲いた。
三つの小さな花火が、私の手のひらの上で、くるくると回っていた。
私は、ガラスに映った自分の顔を見た。口が、半開きだった。
「……え、これ、なに」
手を振ってみた。花火は消えない。息を吹きかけてみた。消えない。目をつぶってみた。瞼の裏にも、赤、青、金の光が残っている。
湾岸では、四発目の花火が上がっていた。私の左手に、四発目の小さな花火が咲いた。
あ、と思った。
これ、空の花火を見るたびに、私の手に、コピーされてる。
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「――見つけた」
背後で声がした。
私は飛び上がった。膝をガラスにぶつけた。振り返ると、男が立っていた。スーツ姿。ネクタイが緩んでいる。二十代後半くらい。右手に、火の点いていない線香花火を一本、ペンを持つように構えていた。
スーツと、線香花火。なぜか、それが異様に絵になっていた。
「……あの、どちら様」
「天神隼。〈火工庁〉の職員だ」
「か、かこうちょう?」
「政府の、影の部局。君のような人間を管理している」
管理、という単語に、鳥肌が立った。
「人違いです。私、ただの事務員で、あの、残業してて、花火を見てただけで」
「見ながら、写したな」
「え?」
「花火を、手のひらに。何個、写した?」
私は、黙って左手を開いた。ぽろ、ぽろ、と七つの小さな光球が、床に転がって消えた。
男は、深いため息をついた。安堵とも、諦念ともつかない種類の。
「七発か。一晩で七発コピーできる〈写し手〉は、戦後でも五人といない」
「うつし、て」
「花火を見ると、網膜が光の紋様を記憶して、体内にコピーする。それが写し手の能力だ。花火、街灯、ネオン、稲妻――発光するものなら何でも写る。写した光は体内に蓄積して、掌から撃てる。撃てるのは、写したのと同じ紋様だけ。自分じゃ、新しい花火は作れない」
「……私、花火、作れないんですか」
「作れないのが、写し手だ。その代わり、写すキャパシティが異常に高い。君の場合、特に」
「そんな能力、何の役に」
「打ち手が作った玉を、何発にも増幅できる」
隼は、右手の線香花火を、ちょっと持ち上げた。
「俺みたいな打ち手と組めば、俺の一発を、君が十発に増やせる。二人で一つ、みたいなもんだ」
「……それで、何で、走るんですか」
「逃げるんだ。〈消し手〉が来る前に」
•
窓の外で、フィナーレのスターマインが始まった。
百発、二百発、三百発。赤、青、金、銀、紫。夜空が昼のように明るくなる。会場でも、歓声が上がっているだろう。花火大会のクライマックス。
そのクライマックスを、私は見ていた。
見て、しまっていた。
体の中で、熱が膨れ上がった。指先でも、手のひらでもなく――胸の奥、肺の底、背骨の付け根、太ももの裏側、踵の中まで。全身の、あらゆる場所に、光が咲きはじめていた。
「全部、写すなっ!」
男の声が、切迫していた。
「君のキャパシティを超える。今夜の大会は二万発だ――そんな数を一人で受け止めた写し手は、歴史上いない!」
遅かった。
私の背後の窓ガラスに、スターマインのクライマックスが映り込み、そのひとつひとつが、私の体のどこかに咲いた。
指が熱い。喉が熱い。まぶたの裏で、紫の菊が回っている。膝の裏で、金の牡丹が開いている。自分の体が、自分のものじゃなくなっていく感覚。二万発の花火が、私という小さな容器に、無理やり押し込まれていく。
フロア中が、昼になった。窓ガラスが、震えた。天井の火災報知器が、鳴り始めた。
男が叫んだ。
「走れ! 〈消し手〉が来る前に――!」
「走れって、どこに!」
「東京タワー!」
「な、なんで!」
「今は聞くな!」
男の手が、私の手首を掴んだ。その瞬間、私の指先から、また一発、小さな赤い牡丹が咲いた。男の、手の甲の上で。
男は、ちょっと目を細めて、それから笑った。笑いながら、非常階段の扉を蹴り開けた。
「いい筋だ、君」
「え?」
「走りながら、咲かせられる〈写し手〉は、希少なんだ」
「褒めてます? それ」
「走れ!」
私たちは、十七階の非常階段を、駆け下りた。階段の手すりを握るたび、私の手から、小さな花火が転がり落ちていった。赤、青、金、紫、白。手すりを光が伝って、下の階に降りていく。
三階まで降りたところで、男が、ふと足を止めた。窓の外、ビルの正面玄関の方を、見ていた。
「……道路に、消し手がいる」
「え?」
「タクシーを呼んである。けど、このままロビーを出たら、正面玄関で君が吸われる」
男が、胸ポケットから、一本の線香花火を抜き出した。いつの間に、そんな場所に、そんなものを。男は左手で小型のライターを出し、右手の線香花火の先端に、火を点けた。
ぽつ、と、蕾が灯った。
「三秒だ、三浦」
「三秒?」
「蕾ステージで、俺が作れる花火は、小さな一発だけ。それを玄関先に投げて、消し手の目を奪う。その三秒の間に、タクシーに駆け込め」
「隼さんは?」
「俺も一緒に飛び乗る。心配するな、打ち手は走るのだけは速い」
男が、指先で線香花火の蕾を弾く構えを取った。玄関ガラスの向こう、暗い歩道に、黒いスーツの影が、ひとつ立っていた。
私の手のひらで、二万発のうちの最初の一発が、ちりちりと、解放を待っていた。街の遥か上空では、花火大会のフィナーレが、まだ終わっていなかった。




