第五十七話 抄火
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
翌日。
フリーランチャー研究所。
三階。
村上のオフィス。
デスクの上には、リサのフレックス・シートが置いてある。
村上はそのフレックス・シートをタップしてLogを開く。
リストにタイトルが並ぶ。
タイトルの一つに視線が向いた。
【実録】カウンセリング・セッション UPDATE:20XX-XX-XX 05:10:04
更新日時は今朝。
村上はそのタイトルをタップする。
リサの書いたログがデスクのモニター表示される。
「Scroll down one line every second」
村上の声で、ログがユックリとスクロール・ダウンし始める。
数分後。
ログのスクロール・ダウンが終わる。
村上は、フゥ、と吐息を吐き、椅子の背もたれに深く体を預けた。
椅子の軋む音が、窓のない静まり返った部屋に小さく響く。
村上は、デスクの淵を人差し指でタップしている。
時計の秒針音のような規則的なリズムが部屋に響く。
視線は固定されているが、恐らくどこも見ていない。
村上は体を起こすと、モニターのソフト・キーボードをタップする。
P2P VPNクライアントを起動する。
次にチャットツールを起動する。
アドレスリストにある唯一の連絡先「九条斎」をタップする。
画面が一瞬、黒くなる。
次の瞬間、ビデオウインドウに髪の長い無精髭の男――九条斎が現れた。
「こんには九条さん」
九条斎は挨拶を返さない。
「用心棒が必要なんだろ?
お前がこの間言っていた読み通りか?」
「はい。至急お願いします」
「やはりあの女か?タムラ...とか言ったな」
「はい。見事に井出耕造...九条さん的には"ガンマ"ですかね。
その"ガンマ"を洗脳したようです」
「ほう」
「デュプリカントが公になる可能性が高いです」
「分かった。後は任せろ。
そのタムラ...とか言う女の処理はどうするんだ?」
「そちらはお任せください。
もう手は打ってあります」
九条はチャットツールの接続を切ると、Friendsのプロンプトを開いた。
暗号化されたテキストをFriendsのプロンプトにタイプする。
>ZCqv7yqv0yqYyqgq3pXy7pQe1mVqv2qYyq9pQw==
即時、Friendsのプロンプトにメッセージが返された。
>日本語以外の言語は受け付けません。
だが、ログは残る。
それで十分だった。
そして、AESで複合化されたテキストは、こうなる。
"mitochondria:Run Plan C"
この指示は、ミトコンドリアからエコーへと瞬時に伝達された。
東京郊外。
コンクリート打ちっぱなしの二階建て住宅。
半地下のワンルームに、窓はない。
エコーはゲーマー・チェアに深く身を沈めて、壁面のプロジェクターに浮かぶ文字を眺めている。
至急井出耕造を消火しろ。
報酬額は約束通り七千万円だ。
エコーは体を起こし、円卓の上の透明シートを軽くタップする。
シートの上にキーボード・レイアウトが浮かび上がった。
エコーは音もなく、そのキーボードをタイプする。
正面の壁には、モスグリーンのコマンド・プロンプトが映し出された。
そして、コマンドを素早く入力する。
一拍。
ふっ、と微かな笑いを漏らし、少し首を傾げると、
コマンドの最後に"99 times"と入れ、"E"アイコンをタップした。
同時刻。
井出家。
キッチン・カウンターに置かれたスマート・スピーカーが、突然、起動音もなく光った。
温度のない、合成音声特有の柔らかさだけを残した女の声が流れ出す。
「井出益代さん。こんにちは。大事なお知らせです」
声は淡々としているのに、どこか“読み上げ”ではない奇妙な間があった。
「井出興商のケイマン諸島の投資信託子会社……Ide Investment Trust Co., Ltd……役員は二名。井出泰三。井出耕造」
「但し、日本での井出耕造の役員登記は不記載」
「オフィーリアを公にすれば、これらも公にいたします」
「これは、いたずらではありません」
リビングにいた井出益代が、血の気の引いた顔でキッチンに駆け込んでくる。
「え?誰!?」
益代はスマート・スピーカーに目を向ける。
スマート・スピーカーは同じメッセージを繰り返している。
「なによこれ...故障...?」
益代はゆっくりと近づくが、途中で足を止めた。
目は大きく見開かれ、呼吸が止まる。
「なによこれ...なんで知っているのよ!」
益代はキッチンを見渡すが、誰もいない。
「誰なのよ!どこにいるのよ!!」
益代の張り上げた声が、広いキッチンに拡散する。
スマート・スピーカーは淡々と同じメッセージを繰り返す。
益代は耳を塞ぎ、床に膝をついて頭を振った。
「やめてぇ……お願いだからやめて!!!」
一時間半後。
キッチンに残っているのは、益代のすすり泣く声だけだった。
益代はよろよろと立ち上がると、震える指で握っていたスマートフォンを握り直し、数回タップした。
しばしのコール音の後——
「私だ。どうした?」
井出泰三の声だ。
益代は泣きながら、スマート・スピーカーに起きた異常を説明し始めた。
泰三は一言も挟まず、ただ聞いている。
益代が大きく鼻をすする。
「故障かもしれないわね……メーカーに連絡して修理を——」
「だめだ!そのメッセージを誰にも聞かせてはならない!!」
「じゃあ、どうすれば……」
「耕造は家にいるのか?」
「はい」
「あの“化け物”も一緒か?」
「化け物なんて……はい、一緒です」
「分かった。今から帰る」
通話が切れた。
次回はパートIの最終話です。




