第五十八話 幻実(PART I 最終話)
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
二時間後。
五階にある井出耕造の部屋のドアの前。
濃紺のスーツを着た井出泰三が立っている。
中肉中背、黒く染めた髪を後ろに撫でつけ、黒縁の眼鏡をかけている。
顔は天井を仰ぎ、口は僅かに開いている。
益代がスマートフォンに録音したあのメッセージを聞いたばかりだ。
泰三は大きくため息をつくと、ドアをノックし、ドアを開ける。
泰三はいつも耕造の返事を待たずにドアを開ける。
だから耕造は返事をしない。
「邪魔するぞ」
泰三は耕造の部屋に足を踏み入れる。
角部屋だけあって、室内は明るい。
カーテンは全開。
だが、五階から見える景色を遮るものは何もない。
耕造はオフィーリアと向かい合って座っている。
「耕造、ちょっと話があるんだが...」
「ああ、ちょっと待って」
耕造はオフィーリアと二言三言、言葉を交わすと泰三に向きを変えた。
「なに?」
「オフィーリアとの生活はどうだ?まだ数日だが」
「まだ安定化期間だからね。反復学習で会話は自然になっていくらしい」
「楽しいか?」
「ああ、なんたって、自分の脳と同じ構造を持っているんだ。意見が合わないはずがないからね」
「そうか...」
泰三はオフィーリアを盗み見するように一瞬視線を向け、すぐに耕造に戻す。
「お前、オフィーリアの事を誰かに教えたのか?」
「いや、でも...オフィーリアがもっと安定したら、
自分たちの事を他の人に知ってもらった方がいいんじゃないか、
そう思っている。
その事を、オフィーリアと話していたんだ」
「なぜだ?」
「僕みたいな引きこもりで、人との会話が苦手な人のトレーニングになる。
あと、デュプリカントは自分のコピーのような存在だから、自分を外から客観的に知ることができる。
何よりも、もし僕に何かがあっても、オフィーリアがいる、僕のコピーがいる。
つまり、僕が死んでも、お母さんはオフィーリアを僕だと思える」
泰三はため息を付くと、腕組みをして下を向いた。
「そもそも、その...フリーなんとかという会社は、それを許可しているのか?」
「許可するどころか、積極的に公にしたほうが良い、そうアドバイスしてくれたんだ!」
耕造はオフィーリアを見て頷く。
オフィーリアは無表情だ。
「狂っている...」
泰三は下を向いたまま、眉をひそめ、耕造に聴こえないうに囁いた。
「残念だが...オフィーリアを他人に知られる事は許されない」
耕造の顔が紅潮し始める。
「いいか、耕造。オフィーリアが世間に知られたら、もう私はお前を守れなくなる」
「…守る?……」
耕造の拳に力が入る。
「オフィーリアと暮らすのはいい。だが、公表はだめだ」
耕造の肩が小刻みに震えだした。
泰三は耕造の肩に手をかける。
耕造は下を向き、肩を震わせ、歯を食いしばっている。
「父さんの言う事、分かるよな?」
泰三がそう言った瞬間だった。
「やっちゃえば?耕造」
母親の声、いや、母親が若い頃に発していたであろう声が、オフィーリアから発せられた。
「耕造、やっちゃえ」
その瞬間、耕造の両手が泰造の首に絡まった。
泰三の目が見開かれる。
「……耕造……?」
声は、驚きよりも困惑に近い。
耕造の指が、ゆっくりと締まる。
自分でも、何をしているのか分かっていない。
ただ、熱い。
耳鳴り。
視界が狭くなる。
泰三はもがきながら耕造の両腕を掴む。
耕造の両手に力が入る。
泰三は両腕に力を入れて突っ張り、耕造から離れようとする。
耕造の両腕は泰造の首から離れない。
泰三の口から、よだれが流れ出す。
オフィーリアが、笑う。
「いいぞー。もっとやれー」
無邪気な声。
泰三が膝をつく。
耕造も膝をついた。
泰造は仰向けに倒れ、脚をバタつかせる。
泰三は両腕に自分の体重を乗せる。
泰三の顔が赤から紫へ変わる。
耕造の腕が震える。
泰三の体から力が抜ける。
崩れ落ちる。
鈍い音。
静寂。
「やったね、耕造」
オフィーリアの無邪気な声。
耕造が慌てて、両手を泰造の首から放す。
息が上がる。
片方の手で、鼻水を拭った。
横たわる父親を見る。
涙が溢れ出す。
「よくやった、耕造」
オフィーリアの、いや、母親の無邪気な声だ。
耕造はオフィーリアを振り向く。
「これが......自分なのか?......」
耕造はゆっくり立ち上がると、シャツの胸ポケットに入れたユニットを窓辺に放り投げた。
耕造を見ていたオフィーリアの像が一瞬消え、窓辺を向くオフィーリアの像が現れる。
耕造は窓から外を覗くオフィーリアの後姿を見る。
気がつけば、空の色が変わりかけていた。
耕造は、大きな黒いバックパックに数枚の下着、ソックス、シャツ、スラックスを詰め込む。
バックパックを背負い、音を立てずにドアの方へ進む。
足が止まり、横たわる泰三を振り返った。
泰三に近寄ると、屈んで泰三のスーツの上着の内ポケットを弄った。
内ポケットの分厚い革製の長財布を抜き取り、バックパックに入れる。
オフィーリアの後姿を一瞥すると、静かにドアの外に出た。
エレベーターは使わず、階段を忍び足でゆっくり降りる。
母親は二階のリビングルームにいるはずだ。
階段が二階に差し掛かると、自然に早足になっていた。
息を止めて一気に一階まで降りる。
一階の玄関まで降りると靴を履き、ゆっくりと重いドアを開ける。
空を見上げる。
明るいが、日が傾いているのが分かる。
ゆっくりとドアを閉め、表門まで十数メートル歩く。
表門を出る。
耕造の家と同じ様な大邸宅が並ぶ、住宅街にしては広い舗装道路が横たわっている。
耕造は何かを確認するように道の左右を見ると、太陽とは逆方向に駆け出した。
閑静な住宅街に鳴り響いていた耕造の靴音は、やがて聞こえなくなった。
益代が乗ったレベーターは上昇して5階で停止した。
エレベーターを降り、長廊下を耕造の部屋へ向かって歩く。
耕造の部屋の前に来る。
益代はドアノブに手をかけた。
「耕造、入るわよ」
返事はない。
ドアを押す。
軋む音が、やけに大きい。
室内は明るい。
カーテンは全開のまま。
窓辺にオフィーリアの後ろ姿が、最初に目に入った。
「……耕造?」
返事はない。
一歩、踏み入れる。
足先が、何かに触れた。
柔らかい感触。
視線が、ゆっくりと下に落ちる。
濃紺のスーツ。
黒く染めた髪。
横向きの顔。
目は半開き。
口も、少し開いている。
「……泰三?」
益代は瞬きを忘れる。
時間が、止まる。
血の匂いが、遅れて届く。
床に広がる赤。
それが現実だと、理解するまでに、数秒かかる。
膝が崩れる。
床に手をつく。
冷たい。
「……うそ……」
声にならない。
這うように、泰三に近づく。
肩を揺する。
反応はない。
頬に触れる。
冷たい。
その瞬間、胸の奥から、空気が抜けるような音が漏れた。
悲鳴ではない。
叫びでもない。
ただ、壊れる音。
益代は、涙で歪んだ視界の中で、その泰三の顔を見る。
「……あなた……」
益代は、泰三にしがみつき、オフィーリアに視線を向ける。
唇が震える。
「私には……もう……」
言葉が途切れる。
喉が詰まる。
涙が落ちる。
「……もう、オフィーリア......あなたしかいない……」
オフィーリアはただ、外を見ている。
オフィーリアの眼下に、住宅街の道を走り去る人影が映る。
その時、誰にも聞こえないほど小さな声でオフィーリアが呟いた。
「やっと一人になれる……」
室内は静まり返る。
遠くで、サイレンの音が聴こえる。
耕造が家を出た同時刻。
廃棄の様な古いビル。
三階の突き当たり、プレートの外れた質素なドア。
「古物診断所」とだけ書かれた、不自然に曖昧な看板。
ーー西崎千尋は、そのドアの前に立っていた。
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