第四十六話 忽然
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
「では」
そう言って、メイコは井出耕造を見た。
視線は正確だった。
感情を測るためではなく、
説明を届けるための距離と角度。
「先ほど、着替えの際に室内をご覧になったと思いますが」
淡々と、続きを接ぐ。
「いわゆるビジネスホテルの個室と、同じ仕様です」
「バス、トイレ、テレビがあります」
一拍も置かない。
「窓はありませんが、壁面のスクリーンに、風景映像が日替わりで投影されます」
井出耕造の顔はメイコに向き合っているが、視線は合わせていない。
「タブレットが設置されています」
「フロントとのコミュニケーションは、すべてそれを通じて行ってください」
“フロント”という言葉だけが、
この地下空間に、かすかな違和感を残す。
「クロゼットには、一週間分の着替えが入っています」
「毎日、必ず着替えていただきます」
「着終わったユニフォーム、下着、ソックス類は、壁のダストシューターに入れてください」
「食事は、一日三食です」
「タブレットで毎食、和食・洋食・中華のいずれかを選択できます」
「食事は、室内のダムウェーターで運ばれます」
「食後の食器も、同じ場所に戻してください」
「室内には、ドリンクバーがあります」
メイコは、説明を止めない。
「水、お湯、温かい緑茶、オレンジジュース」
「壁面のディスペンサーから、二十四時間利用可能です」
「最後に」
「エスケープシューターの位置を、必ず確認しておいてください」
わずかに、間。
「ここでの生活規則は以上です。何かご質問はございますか?」
井出耕造の視線だけがメイコに向いた。
ーーまるで、人形の目の動きのようだ。
リサはそう感じた。
「ネットは使えますか?」
「ご使用できません」
「なんだぁ、そうなんだぁ~」
井出耕造は芝居がかった言い回しでそう言うと下を向き、長い嘆息を漏らした。
明らかに、メイコがその理由を説明するのを待っている間だ。
だが、メイコはそれ以上何も言わない。
井出耕造の呼吸音だけが聴こえる。
井出耕造は諦めた様にゆっくりと顔を上げる。
「あの、室内に監視カメラはありますか?」
「ございません、お望みなら設置いたします」
メイコは今度は即答する。
井出耕造は驚いた様に顔の前で大袈裟に手を降った。
「いえ、なら...いいです」
井出耕造の視線がメイコから外れた。
リサは項垂れる井出耕造を見ていた。
ーー相手のペースを乱して、会話のハンドルを握る。
メイコ、大した手練れだわ。
「では、デュプリカント生成の作業工程についてご説明します」
リサの指に自然と力が入る。
リサが見た作業工程表に沿った説明が始まった。
井出耕造は無言で聴いている。
リサはメイコの説明を記録している。
二日目の『フェーズ3:人格構築(Construction)』の説明が終った時だった。
うつむいて聞いていた井出耕造が、急にメイコに視線を合わせた。
「あの、Look & Feelのモデルですが、私がミナトさんに送ったイメージは届いていますか?」
「はい、オフィーリアの絵のイメージが届いております」
リサの指が止まった。
ーーオフィーリアって...あの、川に浮かんだ死んだ女の絵...?
この男は、
自分のデュプリカントを、女の姿で作ろうとしている...ってこと?
メイコが言った言葉を思い出していた。
ーーこんな気色の悪い存在が、この世にもう一つ増えるのよ。
リサの指が再び動き出した。
「三日目は、Neural Transcription、つまり、神経転写を行います」
リサの指が反射的に止まった。
ーー"N...T..."
メイコがフレックス・シートを叩くと、パーティションのモニターが発光し、映像が現れた。
淡く発光する一枚の金属片を乗せたターンテーブルが回転している。
金属片は回転しながら、光の角度と色を連続的に変えながら放っている。
「神経同調キーです」
井出耕造は身を乗り出して、その映像を見つめている。
「井出耕造さんのニューロンの構造を、この神経同調キーに転写します」
「それは...痛いですか?」
メイコは、即答しなかった。
「痛覚刺激は、最小限に抑えられています」
淡々と、事実だけを返す。
「局所的な電気刺激と、短時間の意識変調がありますが」
「一般的な医療行為の範囲内です」
井出耕造は、ほっとしたように肩を落とした。
その反応を、メイコは見ない。
「ただし」
「神経転写は、不可逆工程です」
リサの指が、フレックス・シートの上で止まったままになる。
——不可逆。
「転写が完了した時点で」
「井出耕造さんのニューロン構造は、神経同調キー側に固定されます」 「その後、同一条件での再転写は行えません」
井出耕造は、ゆっくりと瞬きをした。
「つまり……」
「やり直しは、きかない」
「はい」
パーティションのモニターでは、
金属片が変わらず回転を続けている。
「なお」
メイコは、視線をモニターから外さずに続けた。
「記憶の転写については、契約時に“実施しない”を選択されています」
井出耕造の身体が、わずかに強張る。
「記憶……ですか」
「はい。過去の記憶は、転写されません」
「それは、つまり...」
メイコは間を開けない。
「神経転写は、反応構造の転写です」
「思考の癖、感情の立ち上がり方、判断の傾向」
「未来の事象に対する反応は、井出様と同様になります」
リサの指が反応する。
ーー"同様"..."同一"ではない。
井出耕造が天井を仰いだ。
「つまり、そいつは……」
「自分の過去は、知らない」
「はい」
「でも……」
「これから起きることには、俺と同じ反応をする」
「はい、"同様の反応"をします」
井出耕造は、視線を落とした。
膝の上で、指が絡まる。
「……それで、いいです」
「承知しました」
メイコはそう言って、フレックス・シートを一度だけ叩く。
回転していた金属片が静止する。
その瞬間、リサは息を呑んだ。
金属片の向こう側に映る白いボックス。
ボックスの表面に刻印されたロゴはかすれ、”N”と”T”だけが判読できる。
リサは、急激にこみ上がってくる声を押さえきれず、わざと咳き込んだ。
メイコは一瞬、視線をリサに移すが、すぐにモニターに戻した。
リサは動揺を必死で抑える。
ーーこれが…ETHICが私に見せたかったもの…
私に記録させたかったもの。
炎と爆風の中で二人の人間の命を奪ったもの。
メイコの言葉を借りれば——
こんな気色の悪い存在を、この世にもう一つ増やす為のもの!
そして...私は、他の全てを放棄して、これを一年間追ってきたのだ…
リサは、全身が脱力していくのを感じていた。




