第四十五話 演擬
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
三人を乗せたエレベーターは、地下二階で停止した。
低い振動。
それだけが、到着を告げる合図だった。
ドアが開いた。
現れたのは、長方形の、真っ直ぐな廊下だった。
地下一階と同じく、床には四角いタイルが敷き詰められている。
一枚一枚が発光しているわけではない。 床そのものが、均一に光っているように見えた。
左手の壁面に三つのドア。
右手の壁面にも三つのドア。
そして正面の壁に、一つ。
正面のドアは、エレベーターから三十メートルほど先にある。
距離は、必要以上に感じられた。
だが、その理由を考える気は起きない。
メイコは左手の壁面へ向かい、 一番手前のドアの前で立ち止まった。
フィンガー・ディンプルに指を置く。
ロックが解除され、 ドアは、音もなくスライドして開いた。
その先には、さらに廊下が続いていた。
幅も、照明も、床材も同じ。
ただ、両側に並ぶドアの数だけが増えている。
リサは、
自分がどの地点にいるのかを、
すでに把握できなくなっていることに気づいた。
メイコは歩みを止めない。
やがて、 デジタルパネルに《β-E9-0005》と表示されたドアの前で立ち止まる。
再び、フィンガー・ディンプル。
解除音はない。
ただ、ドアが開く。
室内は、 パーティションによって、いくつかのブースに区切られている。
「こちらへ」
メイコの声は短かった。
工程の次を、読み上げたような声だ。
井出耕造は、 一拍遅れて、そのブースへ足を踏み入れた。
リサも、 井出耕造の猫背を見ながらブースに入っていく。
ブースの構造は、一階のオープンオフィスと同じだった。
パーティションには、いくつかのモニターが埋め込まれている。
パーティション沿いには、カウンター状のテーブル。
椅子は五脚。
「適当にお座りください」
メイコの声に抑揚はない。
井出耕造は、一番手前の椅子に腰を下ろすと、 そのまま、天井を仰いだ。
リサは、その視線の先を追う。
——同じだ。
ノマドアーズのLSPで案内された、 一階バックヤードと同じ天井。
無数の反射板。
蜂の巣のように敷き詰められた、可動式のミラー。
壁面から放射される“光のスリップ”を拾い上げ、 必要な角度だけを選び、ブース内へと反射させている。
光は、均一ではない。
このブースだけが、選ばれて照らされている。
他のブースの天井には、 “光のスリップ”は当たっていない。
リサが椅子に座る。
微かに椅子が軋んだ。
(音は…するんだ。)
リサの指が、フレックス・シートの上を走る。
——必要なときに、必要な部分だけを可視化する。
そういう思想。
リサは、ふと考える。
——まるで、
メイコの、あの万華鏡のような表情の変化と同じだ。
だが、その思考は、 声にも、ログにも、残さない。
それは、 リサの頭の中にだけ、記録された。
「井出様には、退所までの一週間、こちらの施設に滞在していただきます」
メイコは、事務的に告げた。
「これから、この施設での生活規則と、デュプリカント生成までの工程スケジュールをご説明します」
「はい」
返事は、即座だった。
内容を理解したというより、
返事を求められたから返した、という音だった。
「外出は一切できません」
一拍も置かない。
「部屋の外に出ることは可能ですが、他の部屋、ならびに他のフロアへ移動することはできません」
説明は、淡々と続く。
「それは……」
井出耕造が、言葉を挟む。
「許可されていない……ということですか?」
確認するような口調。
だが、その視線は、メイコの顔を真正面から捉えていない。
リサは、その横顔を見る。
井出耕造の目は、常にわずかに上を向いていた。
相手を見上げるようでいて、 実際には、相手の反応だけを探っている視線。
猫背のせいか。
それとも——
過保護に育った結果、 無意識に相手の庇護欲を刺激することを覚えたのか。
「物理的に不可能、という意味です」
メイコは、即答した。
「物理的に……」
「この施設では、移動の際に通過するすべての設備―― エレベーター、ドア、ゲートなどを稼働させるには、生体認証による承認が必要です」
説明は、淡々と続く。
「承認されない場合、エレベーターのドアは開きません」
「つまり……」
井出耕造は、言葉を探す。
「私の生体認証では、承認されない」
「はい」
肯定は短い。
「じゃあ……」
井出耕造は、少し前のめりになる。
その分、視線はさらに上を向いた。
「火災とか、地震とか……」
「災害時の避難路は、どうなっているんですか?」
リサの指が、止まる。
——そうだ。
この研究所には、非常階段がない。
案内されたこともない。
見たこともない。
リサは、メイコに視線を向ける。
メイコは、表情を変えない。
「この研究所には、非常階段はありません」
「各部屋、ならびに共用スペースには、エスケープシューターが設置されています」
井出耕造は、瞬きをする。
「エスケープシューターは、高台に建設された研究都市全体の避難インフラである、 エスケープトンネルに接続されています」
説明は、滑らかだった。
よどみがない。
「井出様の部屋の床にも、エスケープシューターがございます」
「つまり……」
井出耕造は、確認するように言う。
「その……穴から滑り落ちると……」
「避難用のトンネルまで、運ばれる」
「はい」
「それは……合法なのですか?」
その瞬間、 メイコの眼の色が、ほんの一瞬だけ変わった。
リサには分かる。
——無駄だ。
メイコは、 無知から生まれる確認や、 前提を疑わない質問を、 極端に嫌う。
こんな世間を騒がせている渦中の企業が、 非合法な建築物で事業を行うはずがない。
建築の素人でも、想像がつく。
メイコは、淡々と答えた。
「この施設は、建築基準法に適合しています」
「消防法にも対応しています」
「加えて、研究都市特例により、合法化されています」
列挙。
感情のない説明。
メイコは、確認という行為そのものを遮断するように言った。
「但し、エスケープシューターは非常時にしか開きません」
「非常時とは…」
井出耕造の言葉は質問のようでも、独り言のようでもあった。
「AIが判断します。この施設は全てAIによって管理されています」
リサの指が、再び動く。
——井出耕造の、事実認識能力と演繹的思考能力は、著しく低い。
一瞬、指が止まる。
これは…評価だ。 事実ではない。
リサは、その一文を削除し、 代わりに、こう書き換える。
——非常階段を設けない理由。
外部からの侵入経路の遮断。
これは断定だ。
研究所都市のインフラという事実ゆえ、十分に合理的な結論だ。
そして、それだけを、記録する。




