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Article 9 永遠の愛 — それは福音なのか、呪文なのか PART I  作者: あみれん


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第四十四話 演宴

1.依頼者の呼称


本作に登場する九条斎のビジネスは、

その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。

クライアントは取引の進度に応じて、

九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。


サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。

ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。


〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客


仲介組織を通じて紹介された直後の段階。

動機は不明瞭で、価値も未定義。

ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。

ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。


〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者


九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。

依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。

アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。


〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者


具体的な作業に入り始める段階。

ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。

この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。


〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者


取引の核心に触れつつある段階。

ガンマに至るクライアントは極めて少なく、

慎重な監視と調整が行われる。

実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。


〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)


九条斎のみが扱う特別な分類。

一般のクライアントとは異なり、

ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。

その詳細はミナトにも共有されず、

オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。


◆【補記】


この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、

外部には一切公開されない。


段階は技術的な進度だけでなく、

クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・

そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。


この分類は、

物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」

というテーマとも密接に結びついている。


2.仲介組織について

《ミトコンドリア》──

それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。


ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。

上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。

構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、

必要な時だけ一時的に接続される。


その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。

部分を切り離されても全体は崩れず、

事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。


情報はチェーン化された経路を通って流れ、

誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。

あるのは“つながり”だけ。

誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。


ミトコンドリアの役割はただ一つ。

九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。


それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、

候補者自身が最終的に知ることになる。

メイコ、井出耕造、リサの順で、エレベータに乗り込む。

メイコは操作パネルの〈B1〉を押した。

エレベータのドアが、

ゆっくりと閉まっていく。


そのわずかな時間、

三人のあいだに言葉はなかった。


リサが、ノマドアーズのLSPに案内されたのは、

一階のバックヤードまでだ。

地下に何があるのかは、知らされていない。


リサは思う。


——そういえば、

この施設で、まだ階段を見たことがない。


地上三階、地下三階。

この規模の研究所であれば、

非常階段の設置義務がないはずがない。


だが、

彼女の記憶には、

それに相当する動線が存在しなかった。


リサは、

ジャケットの内ポケットに指を入れ、

フレックス・シートの感触を確かめる。


そこにある。

だが、それだけだ。


エレベータが、停止した。


低い振動。


そして、

ドアが開いた。


エレベータのドアが、静かに開いた。


正面に、

大きな円形の空間が広がっている。


床には、LEDのような光を放つ四角いタイルが敷き詰められていた。

一枚一枚が発光しているのではない。

床全体が、均一に「光っている」という印象だけを残す。


天井は高く、

照明は完全に均質だった。

影は生まれず、

光の強さも色温度も、どこを見ても変わらない。


壁は、ぐるりと一周している。


その円形の壁に沿って、

同じ形のドアが、等間隔に並んでいた。


距離も、

高さも、

ドアノブの位置も、

すべてが揃っている。


違いを探す気が、最初から起きない。


それぞれのドアには、

小さなデジタルパネルと、フィンガー・ディンプルが埋め込まれている。

さらに、その横には——

ダストシューターの投入口を思わせる、縦長の開口部があった。


メイコは、円に沿って左手へ進み、

一つのドアの前で立ち止まった。


デジタルパネルを操作すると、

ドア横の開口部が、静かに開いた。


「お荷物を、この中に入れてください」


淡々とした声。


「え?」


井出耕造の肩が、わずかに跳ねた。


「これは……何ですか?」


「ロッカーです」


短い答え。


「ああ……」


理解した、というより、

理解したことにした声音だった。


井出耕造は、背負っていたバックパックを外し、

開口部へと差し入れた。


バックパックが、

吸い込まれるように消える。


「これから一週間、こちらの部屋に滞在していただきます」


そう言いながら、

メイコは丸めていたフレックス・シートを広げ、

表面を数回、軽くタップした。


「こちらに、左手の人差し指を置いてください」


井出耕造を、

ドアのフィンガー・ディンプルへと誘導する。


「これは……何ですか?」


「生体認証用のセンサーです」


「ああ……」


井出耕造は、

恐る恐る左手の人差し指を、窪みに置いた。


「あひっ!」


裏返った声。

押し殺しきれなかった短い叫び。


身体が、後方によろめく。


リサは、その様子を横目で捉えながら、

フレックス・シートに文字を打ち込んでいた。


止めない。

見る。

書く。


「ご心配なく。無事に終わりました」


メイコの声は、変わらない。


「では、もう一度。左手の人差し指を置いてください」


井出耕造が、

固唾を飲み込む音がした。


その瞬間、

リサの口角が、ほんのわずかに上がった。


意識していない。

だが、確かに動いた。


井出耕造は、

今度は声を出さずに、

再び指をフィンガー・ディンプルに置いた。


反応は、一瞬だった。


次の瞬間、

ドアが、静かにスライドしながら開く。


「中に入ってください」


メイコの声は、相変わらず平坦だった。

促しでも、命令でもない。

工程の次を読み上げているだけの口調。


井出耕造は、ドアの前で立ち止まり、

一度だけ、振り返った。


「あの……私の荷物は……」


声は弱く、

問いというより確認に近い。


「お荷物は、退所するまで、あのロッカーに預けていただきます」


メイコは、即答する。


「ここでは、私物の持ち込みは許可されておりません」


井出耕造の視線が、

さきほど荷物が吸い込まれた投入口へ向かう。


「ですが……」

「中には、下着とか、着替えとか、歯ブラシとか……」

「スマホとかが……」


言葉が、途中で途切れる。


メイコは、

その続きを聞く必要がない、というように、

静かに割り込んだ。


「ここでは、決まったユニフォームを着用していただきます」

「下着は、使い捨ての紙製です」


説明は、簡潔だった。


「歯ブラシなど、必要なアメニティはすべて、室内に用意されています」


一切の例外を想定していない声。


「ああ……」


井出耕造は、

それ以上、言葉を探さなかった。


「中に入って、下着も含め、すべて着替えてください」


メイコは続ける。


「今お召しになっている服と下着は、室内にある抗菌バッグに入れてください」

「それを、こちらにお持ちいただきます」


説明は、

人に向けられているというより、

作業手順の確認に近い。


「では、お願いします」


「ああ……」


返事は、反射だった。


井出耕造は、

一歩、室内へ足を踏み入れる。


振り返らない。


ドアは、

音を立てることなく、

スライドしながら閉じていった。


リサは、メイコの顔に浮かんだ微かな笑みに気づいた。


それは、

歓迎の笑顔ではない。

安堵でもない。


何かが起きるのを、

最初から分かっていて待っているような笑みだった。

意地の悪さが、隠しきれずに滲んでいる。


——本当に、万華鏡のような女。


角度を変えるたびに、

別の模様を見せる。


十分が経った。


リサは、時間を意識した。


——おかしい。


着替えに、

これほど時間がかかるはずがない。


室内で、

何かが起きている。


そう考えた瞬間、

リサは無意識にメイコを見る。


メイコは、片手の平で顔を覆っていた。


指の隙間から、

口元が見える。


肩が、わずかに揺れている。


——笑っている。

いや、

笑いをこらえている。


そのときだった。


ドアが、音もなくスライドして開いた。


中から現れたのは、

紺のジャンプスーツの様なユニフォームに着替えた井出耕造だった。


抗菌バッグを両手で抱え、

足元がおぼつかない。


一歩、

二歩。


そして、

力が抜けたように床へ崩れ落ちた。


うつむいたまま、

大きく息を吐く。


「あの……」


声が震えている。


「ドアの、開け方が分からなくて……」

「中で……パニックになって……」


再び、

大きく息を吐く。


「で……」

「冷静になって考えたんです」

「きっと、開ける方法があるはずだって……」


言葉を探すように、

視線が泳ぐ。


「それで……」

「やっと見つけたんです」

「ドアに埋められていた、あの“窪み”を……」


井出耕造は、

ゆっくりと立ち上がった。


抗菌バッグを差し出す。


メイコは、

何も言わずに受け取ると、すかさずダストシューターのような投入口に投げ入れた。

メイコが再びパネルを操作すると、

開口部は、何事もなかったかのように閉じた。


その表情は、

すでに元に戻っていた。


先ほどまでの笑みは、

跡形もない。


リサは、フレックス・シートに視線を落とす。


記録。


・入室後、ドア操作不能

・室内にてパニック反応を確認

・開放まで約十分

・退出時、明確な疲弊反応

・行為の省察に伴う自己承認欲求の兆候

・本環境において「分からない」状態そのものが負荷として設計されている

・その負荷を観測し、楽しんでいる人物:メイコ

・構図:演出者と演者


「井出様、ではこちらへ」


メイコは井出耕造をエレベータに誘導した。

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