第四十七話 一檄
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
深夜2時。
繁華街の外れにある、薄汚れた呑み屋。
リサはその呑み屋のカウンターに座っていた。
客は五人。
女は、リサ一人だった。
寝付けなかった。
思わずマンションを飛び出して繁華街に出たが、この時間に営業している呑み屋はない。
死んだような繁華街を二十分ほど彷徨い歩いて見つけた店だ。
ネオンの赤がガラスに滲み、店内の空気は古い油と安い酒で重い。
床は粘つき、カウンターの縁には乾いた水滴の輪がいくつも残っている。
有線の歌謡曲が、スピーカーの奥で潰れていた。
リサは氷だけが残ったハイボールのグラスを指で回して見つめている。
炭酸はもう死んでいる。
気の抜けた甘さだけが残る。
ーー今日、目の前に出てきたもの。
あの白いボックス。
“N…T…”。
一年間追ってきたものが、突然、眼前に現れた。
Friendsに売った爆破映像には含めなかったモノ。
最大限に価値を高めて売り込むためだった。
だがーー
この一年間、殆んど進展は無かった。
研究所の再建築では、建設現場全体が目隠しのドームで覆われていた。
フリーランチャーへの取材依頼は門前払い。
AI関連企業にも多数取材したが、彼らもフリーランチャーの実体を掴んではいなかった。
決算報告の義務もない合同会社だ。
顧客リストも全く明かしていない。
ネットは全く役に立たない。
Friendsにも聞いてみたが、CP(Collaborative Partners)以外には非公開だと言われた。
外部ソースに調査を依頼することはリサの流儀に反する。
つまり...お手上げ状態だった。
それが、今日、忽然と眼前に姿を見せた。
まるで自分を嘲笑うように。
リサはほとんど空のハイボールを一口すすった。
ーー正直言って...
この二日間で、私は自分を見失っている、
いや、現実と仮想の狭間で圧倒されて遭難しかかっている。
私は今...何処にいる...
きっと...
全てETHICのシナリオ通りなんだ。
彼らは...この異常な世界地図を上から俯瞰して、正確に私の位置を掴んでいるのだ。
客の一人がリサの後ろを通って、フラフラと出口に向かった。
ヨレヨレのスーツ、はみ出した白いワイシャツ、千鳥足...
「醜い、いや、気色悪い」
リサは、誰にも聴こえないように囁くようにそう呟くと、喉の奥で笑いそうになった。
井出耕造の姿が脳裏に浮かんだのだ。
「気色悪い」
ハイボールの氷を頬張り、口の中で転がす。
ーーデュプリカント。
神経転写。
記憶はオプション。
いったい、これらは何なのだ。
AIに関しては豊富な取材経験があるつもりだが...刺さってこない。
新手の詐欺商法ではないのか?
だいたい、自分のコピーを異性の姿で作ろうなどと思う異常な客は、いいカモではないのか?
だが...
ここまで手間ひまかけて、そんな茶番を私に見せる事に…意味は見いだせない。
それに、人の命まで奪われている。
仮に…デュプリカントが本物だとしたら、ETHICの狙いはなんだ?
「おーい、チューハイくれやぁ」
背後のテーブルの作業着を着た男が声を張り上げる。
カウンターの奥のマスターらしき男は、無言で素早くチューハイを作ると、男のテーブルに運んだ。
「おかわり、どうします?」
カウンターの奥に戻る際に、マスターらしき男がリサに声をかけた。
「あ、じゃあ...ハイボールのおかわりで」
男はリサの空いたグラスを掴むと、無言でカウンターの奥に入る。
十秒ほどで、リサの前におかわりのハイボールが置かれた。
リサはそのグラスに反射する鈍い光を見つめている。
ーー神経同調キー
ETHICは、表向きは倫理団体だ。
だが、手段だけを見れば、テロ組織と呼ばれても不思議はない。
リサはマスターらしき男に、紙とペンを貸して欲しい、と頼む。
男は無言で、数枚のチラシと鉛筆をリサの横に置いた。
リサはチラシの空いたスペースに書き込む。
"ETHICー倫理ーAIーデュプリカント"
AIには常に倫理問題が付きまとう。
プライバシーと監視
透明性と説明責任
プライバシーと監視
ディープフェイクによる偽情報の拡散
自律型兵器
どれも当てはまりそうでも、当てはまらなそうでもある。
メイコの言葉が浮かぶ。
《こんな気色の悪い存在を、この世にもう一つ増やす》
そうか、人格の複製...
こんな事が実現可能になったら...倫理問題どころではなくなる。
社会があっという間に、恐怖に覆われるだろう。
「人格の尊重」という、社会の概念や制度を支えるプリミティブな土台が崩れるのだ。
リサは、喉を鳴らしてハイボールを流し込む。
ーーETHICの狙いは、それだ。
人格の複製などというものは、倫理団体として許容出来ないのだ。
何故なら、彼らの存在意義が根こそぎ奪われるからだ。
デュプリカントは彼らの捕食者、いや、生態系の頂点捕食者になり得るのかもしれない。
仮に、そこまでではないにしても、その恐怖心を社会に植え付け、混乱させるには十分だろう。
だとしたら、フリーランチャーは反社組織?
だとしたら、それをテロで封じ込めようとするETHICは何者?
ひょっとして、ETHICの後ろにはもっと巨大な何かがいるのかも...
リサがハイボールを飲み干す。
酔っていた。
眠れる気がした。
――気がしただけだ。
会計を済ませて出口へ向かう。
その前に、男が立っていた。
赤ら顔の中年。
酒で膨らんだ腹。
出口を塞ぐように、わざと立っている。
濁った目が、リサの顔から首、胸、腰へとゆっくり滑る。
値踏み。
確認。
所有の想像。
井出耕造の目と、同じ種類の動きだった。
ただ、こいつはもっと露骨で、もっと下品で、
そして、もっと社会に溶け込んでいる。
男の口元が歪んだ。
見にくい笑み。
「よう、ねぇちゃ――」
リサの足が動いたのは、考える前だった。
「お前も気色悪いんだよ!」
リサの蹴りが男の股間にヒットした。
一撃。
鈍い音。
確かな手応え。
男の身体が折れ、呻きが床に落ちる。
リサは一度も振り返らない。
店を出る。
冷たい風が頬を撫でた。
リサは一度だけ、深く息を吐く。
——ああ。
そして思った。
今蹴り上げたのは男の股間だけじゃない。
井出耕造の甘えも、
メイコの演出も、
ETHICの利用も、
自分の中に溜まっていた「見ないふり」も。
全部まとめて、蹴った。
そして歩き出す。
帰るためにではない。
次の“記録”へ向かうために。




