第四十一話 音叉
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
リサは、研究所のエントランスに足を踏み入れた。
さきほどまで、ガラス越しにこちらを見下ろしていたはずの村上の姿は、もうない。
何事もなかったかのように、広い空間には人の気配だけが薄く残っている。
リサは、内側のフラッパーゲートの一台に近づいた。
トッププレート。 左手の人差し指。 フィンガー・ディンプル。
指先に、昨日と同じ微かな振動が伝わる。
ピッ、という感覚だけが走り、次の瞬間、フラッパーが静かに開いた。
エレベーターホールを横目に、リサは脇の大きなドアへ向かう。
ドア脇の太いポール。
その頂部に埋め込まれたフィンガー・ディンプルに、再び指を置く。
わずかな間。
そして、重たい質量を感じさせる動きで、ドアがゆっくりと開いていった。
オープンオフィス。
足を踏み入れた瞬間、視界いっぱいに岩肌が広がる。
カッパドキアの岩窟群。 壁一面のスクリーンに投影されたその風景の中を、色とりどりの気球が、ゆっくりと漂っている。
いや、漂っているというより—— オフィスの壁面を周回するように、正確な軌道で移動している。
リサは、空いているブースを探そうとして、歩き出した。
そして、ふと、足を止めた。
(……音が、ない)
気づいた瞬間、背中に薄い寒気が走る。
昨日は、VRゴーグルの視界に集中しすぎていた。
意識は常に「見る」ことに引き寄せられ、耳に注意を向ける余裕がなかった。
だが、今は違う。
足を踏み出す。
——足音がしない。
一人掛けのブースに近づく。
デスクの上にバッグを置く。
——音が、しない。
バッグからフレックス・シートを取り出し、デスクに放り投げる。
——それでも、何も聞こえない。
(うそ...でしょ...)
リサは両手を打つ。
やはり、聴こえない...
自分の聴力が、突然失われたのではないか。
そんな錯覚が、じわりと胸に広がる。
そのときだ。
「おはよう」
声。
リサは、反射的に顔を上げた。
出入り口のドアから、二人の男が談笑しながらオープンオフィスに入ってくる。
ドアは、ゆっくりと閉まる。
だが—— その閉まる音は、やはり聞こえない。
聞こえるのは、人の声だけだ。
リサは、ブースの椅子に腰掛けた。
深く息を吐き、フレックス・シートを二回タップする。
透明な膜の中に、淡い光が滲み、 ポータルのレイアウトが浮かび上がった。
同時に、ブースのパーティションに埋め込まれたスクリーンが起動し、 フレックス・シートと完全に同期した同じ画面を映し出す。
リサは、シート左端の《NOMADORS》をタップした。
一瞬の暗転。
《Welcome, Shiori. Tap me.》
軽やかな文字列が、スプラッシュする。 リサはその文字に触れた。
《Select Avatar》
無数のアバターのサムネイルが、視界いっぱいに並ぶ。
リサは、目を閉じた。 一拍。 そして、フレックス・シートをタップする。
目を開けると、
《Welcome to β-E9-0005》
という文字が一瞬だけ浮かび、 次の瞬間、画面は切り替わった。
《β-E9-0005 Dashboard》
そこは、ホテルのスイートルームのような空間だった。
柔らかな光。
広い窓。
落ち着いた色調のインテリア。
中央の椅子に、二つのアバターが座っている。
一つは—— 奇妙な形状。
カブトムシの幼虫を思わせる、白く丸みを帯びたアバター。
「どう?」
そのアバターが、軽やかに身をくねらせた。
「気に入った? シエル・ドバイ・マリーナのスイートよ」
メイコの声だ。
リサは、視線を下げる。 自分のアバターは、細長い。
鉛筆のような、簡素な形状。
(……これが、私か)
「一つ、聞いていい?」
リサが話すと、鉛筆のようなアバターが、わずかに揺れた。
「どうぞ」
「このオープンオフィス……」
「人の声以外の音が、聞こえないようになっているわね」
「あら、今頃気づいたの?」
メイコの声には、少しだけ楽しげな響きがあった。
リサは、答えない。
「反音響粒子放射器よ」
メイコは、淡々と続ける。
「音を“波”としてじゃなく、量子として扱う。
フォノンの鏡像になる“反フォノン”を発生させて、環境音だけを相殺してる」
「……つまり」
リサは言葉を選ぶ。
「人の声以外を打ち消す、
反物質みたいな音響粒子?」
「その理解で問題ないわ」
メイコは即答した。
スイートルームの窓の外で、夜景がゆっくりと流れていく。
「雑音は、思考の敵だから」
メイコは、静かに言った。
「ここでは、考えるべき声だけが残る」
「反音響粒子放射器はまだパイロット版、開発プロジェクトのQAチームがこのオープンオフィスで評価中。いずれ製品化される」
リサは、自分のアバターを見つめたまま、言葉を失っていた。
オフィスから消えた音。
選別された声。
そして、自分が今いるこの場所。
(……境界は、もう曖昧だ)
どこまでが現実で、 どこからが仮想なのか。
リサは、その境目を測ろうとするのを、やめた。
ここでは、 それを測る意味がないのだと、 本能的に理解してしまったからだ。
「ではこれから、業務の説明をします」
カブトムシの幼虫が身をくねらせた。




