第四十話 愚騒
1.依頼者の呼称
本作に登場する九条斎のビジネスは、
その性質上、外部には決して明かされない複数の“進行ステージ”を持つ。
クライアントは取引の進度に応じて、
九条とミナトの内部で、以下のように呼び分けられている。
サービスの具体的な内容は作中で徐々に明らかになる。
ここでは名称と、その段階が示す“抽象的な意味”のみ記す。
〈λ段階:ラムダ〉— 仲介直後の潜在顧客
仲介組織を通じて紹介された直後の段階。
動機は不明瞭で、価値も未定義。
ラムダ段階の者は、まず“ここに来た理由”そのものが精査の対象となる。
ミナトはこの段階のクライアントを特に厳しく見極める。
〈α段階:アルファ〉— 選別を通過した有資格者
九条のビジネスにおいて“一定の価値を持つ”と判断された段階。
依頼者の動機が純度を保ち、意図が明確であることが条件とされる。
アルファに至ったクライアントのみが、次の段階へ進むことを許される。
〈β段階:ベータ〉— 初期実行工程へ移行した者
具体的な作業に入り始める段階。
ベータへの移行は容易ではなく、アルファの中からさらに選別される。
この段階では、クライアント側にも一定の“覚悟”が求められる。
〈γ段階:ガンマ〉— 最終調整・仕上げに入った者
取引の核心に触れつつある段階。
ガンマに至るクライアントは極めて少なく、
慎重な監視と調整が行われる。
実行プロセスはほぼ最終局面にあるとされる。
〈Ω段階:オメガ〉— 特異案件(九条専権)
九条斎のみが扱う特別な分類。
一般のクライアントとは異なり、
ビジネス上の価値という枠を超えた“特別な意味”を持つ。
その詳細はミナトにも共有されず、
オメガに至った案件が何を意味するのかは作中で徐々に明かされる。
◆【補記】
この階層体系はあくまで九条斎の内的な分類であり、
外部には一切公開されない。
段階は技術的な進度だけでなく、
クライアントの動機・覚悟・倫理的負荷・
そして“取引を成立させるに値するか否か”を示している。
この分類は、
物語の根底に流れる「価値とは何か」「存在とは何か」
というテーマとも密接に結びついている。
2.仲介組織について
《ミトコンドリア》──
それは、九条のビジネスを外側で支える仲介組織である。
ただし、一般に想像される“組織”とは異なる。
上下関係も、拠点も、名簿も存在しない。
構成員同士は匿名化された端点どうしで結ばれ、
必要な時だけ一時的に接続される。
その姿は、階層を持たないアメーバ状のネットワーク。
部分を切り離されても全体は崩れず、
事故が起きれば“その部分だけ”を即座に切断し、痕跡を残さない。
情報はチェーン化された経路を通って流れ、
誰がどこにいるのかさえ、構成員同士ですら知ることがない。
あるのは“つながり”だけ。
誰もが断片であり、全体であり、そして代替可能である。
ミトコンドリアの役割はただ一つ。
九条のもとへ、条件を満たした候補者──ラムダを運ぶこと。
それがどれほど危険で、どれほどの代償を伴うかは、
候補者自身が最終的に知ることになる。
シャトルバスを降りたリサは、フリーランチャー研究所に向かって歩いている。
快晴。
研究都市のメインストリートの脇の煉瓦が敷き詰められた広い歩道に、銀杏並木の長い影が落ちている。
フリーランチャー研究所のビルが見えた時、
リサは、足を止めた。
——騒がしい。
今日が初出勤のリサには、それが日常なのか非日常なのか分からない。
再び歩き始める。
歩道沿いのフラッパーゲートが見えてきた。
立ち止まる。
ーーこの光景、明らかに日常じゃない
ゲートの前に、五十人ほどの人だかりがある。
手製のプラカード。
拡声器。
スマートフォンを構えた腕。
「——バイオAI反対!」
「——人間の仕事を返せ!」
「——企業の暴走を許すな!」
拡声器の声が、研究所の外壁に反射して跳ね返る。
抗議団体だ。
全員、緑のハチマキを巻き、ハッピを着ている。
ハッピにロゴが打ってある。
北九州の市民団体——名前は、どこかで見たことがある。
彼らは叫びながら、
フラッパーゲートを通過する社員や関係者を、
一人ひとり、執拗に撮影していた。
カメラを向けられた人間は、
自然と顔を伏せる。
カバンやフードで視線を隠し、
早足でゲートを抜けていく。
——記録しているつもりなのだろう。
——だが、やっていることは、晒しだ。
リサは、バッグからスマートフォンを取り出した。
画面を起動し、録画を始める。
抗議の声。
群衆。
カメラを向ける手。
そして、こちらに気づく一人の男。
四十代前半。
日焼けした顔。
興奮で頬が赤くなっている。
男は、一直線にリサへ向かって走ってきた。
「おい!」
距離が一気に詰まる。
「お前、何を撮ってる!」
リサは、スマホを下げない。
「あなた達」
平然と答える。
だが、スマホを持つ指先が、わずかに震え始めている。
男は一瞬、言葉に詰まった。
「……は?」
「あなた達を撮ってる」
男の目が、細くなる。
「撮影を止めろ!」
「あなた達が撮影を止めたら私も止める」
「許可を取れ!」
「じゃあ、あなた達は?」
リサは即座に返した。
「研究所に入る人を撮る許可、取ってるの?」
男の顔が歪む。
「俺たちは正義だ!」
「それは...どういう正義?」
リサは静かに固唾を飲む。
「報復的正義だ!」
「何に対する?」
男の浅黒い顔が紅潮しているのが分かる。
「いいか、バイオAIなんてものができたら、どうなると思ってる!」
男は声を荒げた。
「仕事がなくなる!人が切り捨てられる!分かってるのか!」
リサは僅かに震える指でスマホを男に向けている。
「そうなったら、俺達の生活はどうなる!俺達の家族はどうなる!」
男は歩道に唾を吐いた。
それを見て、リサは男の中には確たる確信の無いことを感じ取った。
第六感だ。
「本来は、国が規制すべき事案だ。国が動かないから、我々がこうやって行動を起こしている。国民の生活を守るためにな!」
リサは、男を見据えたまま言った。
「百年前も、同じことを言った人達がいたわ」
男が黙る。
「この国にコンピュータが普及し始めた時、
『仕事が奪われる』
『人間はいらなくなる』
って」
リサの声は冷静だ。
だが、胸の奥はざわついている。
スマホを握る力が、強くなる。
「確かに、仕事は奪われた」
「でも同時に、新しい産業が生まれた」
「新しい職種が生まれた」
「雇用が増えた」
「結果的に、社会は前に進んだ!」
「違う?」
リサが捲し立てる。
男が叫ぶ。
「それとこれとは違う!」
「どう違うの?」
リサは、即座に切り返す。
「AIだけが例外だって、どうやって証明するの?」
「あのときと同じ事が“起こらない”って、どうやって言い切れる?」
「それに...報復的正義だなんて、報復に値することなんて、まだ何も起きていないわ!」
一瞬、空気が止まった。
男は、言葉を探す。
だが、出てこない。
「……机上の空論だ!」
「起きてからじゃ遅いんだ!」
「現場を知らない女が!」
論点が、ずれ始めた。
男の表情が明らかに変わった。
ーーこの表情...
リサの喉が、きゅっと鳴る。
怖い。
正直に言えば、怖い。
だが、目は逸らさない。
「あなたの不安は分かる」
「でも、不安と事実は違う」
男の拳が、震え出す。
「黙れ!」
男は、リサのスマホに手を伸ばした。
リサは、とっさに一歩引く。
だが、完全には避けきれない。
「おい、痛い目にあいたくなかったら——」
その瞬間だった。
「動くな!」
鋭い声。
複数の足音。
フリーランチャーの私設警備員たちが、
男を取り押さえた。
男は暴れる。
「離せ!」
「こいつが——!」
だが、数秒で制圧された。
抗議団体の空気が、一気に冷える。
「本日はこれ以上の行動は認められません」
警備員が告げる。
市民団体は、次第に散っていく。
リサは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
スマホを下げる。
手の震えが、ようやく収まってきた。
研究所のエントランス。
ガラス越しに、一人の男が立っている。
村上俊哉。
腕を組み、
この一部始終を、興味深そうに眺めていた。
薄く、笑う。
「立花栞……か」
その視線を感じながら、
リサはフラッパーゲートへ向かって歩き出した。
——逃げない。
——目を逸らさない。
今日から、
この場所で、"立花栞"としての仕事が始まるのだ。




