6 婚約破棄
考えこんでいるとミラベルさんがすっと前に進みでて、優雅なカーテシーをした。
「エレナさんだけでは傷を消せないようでしたので、わたくしが殿下を癒やしてさしあげました」
「エレナの祝福は完璧じゃなかったからね。ミラベルがいてくれて、とても助かったんだよ。きみからもお礼を言ってくれ」
私を見つめながらマルヴィン殿下が言った。
今の「きみ」は、私のことだったらしい。
(私の祝福が中途半端だから、ミラベルさんを連れて行ったということ?)
私はこの塔の中で、たった一人でひどい傷に耐えてきたのに?
「あ……、ありがとう、ございました……」
俯いて頭を下げている間にも、目尻から涙が零れそうだった。
マルヴィン殿下はずっとここに来なかったから、私がどんな傷に耐えてきたのか知らないのだ。
それが分かっていても、悔しくて仕方がなかった。
唇を噛んで涙を堪えていたら、マルヴィン殿下が信じられないようなことを言い出した。
「今まで長かったな……。でもこれでようやく僕は王太子となり、ミラベルを妃に迎えられそうだ」
「え……?」
私は弾かれたように顔を上げ、マルヴィン殿下を見つめた。
「今、なんと……」
「ミラベルを妃に迎える。すまないね、エレナ。実はきみは、二人目の婚約者だったんだよ」
口ではすまないと謝りながらも、マルヴィン殿下の顔は笑っていた。
少しも申し訳なさを感じさせない明るい笑顔だった。
「こ、婚約者は、二人もいるものなのですか?」
マルヴィン殿下が何を言っているのか理解できなくて、私は思わず彼の方へ一歩踏み出した。
すると殿下はミラベルさんを守るように、ずいっと前に出て私を見下ろした。
「婚約はただの約束だよ。約束は必ず守れるものでもない。エレナは今まで生きてきて、約束を破ったことはないのか?」
確かに、守れなかった約束はある――けれど。
「で、でも……、結婚のような大切な約束だったら、普通は守るべきじゃないですか」
必死に言いつのっても、殿下の瞳は冷たいままだった。
「普通? きみは自分が普通だと思うのか? 孤児だったきみが」
私は絶句して、殿下に伸ばしかけていた手を下ろした。
(マルヴィン殿下は、最初から私と結婚するつもりなんかなかったんだわ……)
「孤児院出身のきみが、王子の妃になれるという夢を見れたんだ。それだけでも感謝すべきじゃないか? なぁ、ミラベル」
「エレナさん、わたくしは伯爵家の娘なの。あなたとは生まれも育ちも違うのよ。あまり大それたことを言うものではないわ」
マルヴィン殿下が「さすがミラベルだ、よく分かっているね」と褒めている。
とうとう涙が零れ落ちて、私は手の甲でごしごしと目元を擦った。
「……よく分かりました。では私の役目は終わったということですね」
私はマルヴィン殿下に深々と頭を下げた。
「私は孤児院に帰ります」
院長先生なら、事情を話せばきっと私を受け入れてくださるはずだ。
壁にかけてあった鞄を手に取り、中に薬作りの道具を入れているとマルヴィン殿下が言った。
「それは許可できない。きみはずっとここにいて、薬を作って暮らすんだ」
「は……?」
「エレナが外に出て死んでしまったら、僕の怪我は誰が引き受けるんだ?」
私の手から鞄が滑り、床にどさりと落ちた。
「今後は薬の報酬も渡そう。護衛つきなら外へ買い物に行ってもいい。充分な暮らしだろう?」
それは護衛じゃなくて、監視では?
私は絶望したまま、マルヴィン殿下の美しい顔を眺めた。
この人は一生、私を自由にしないつもりなんだ。
私は死ぬまでこの塔で、マルヴィン殿下の怪我を引き受けないといけないんだ――。
「殿下、そろそろ戻りましょう。ここは空気がよくありませんわ」
「そうだね、咳が出そうだ」
マルヴィン殿下はほこりを払うような仕草をして、塔から出て行った。すぐに扉に鍵が掛かる音がする。
私はふらふらと歩き、塔の扉の取っ手を引っ張った。
分かっていたけどびくともしない。
扉は木製ではあるもののかなりの厚みがあり、成人男性でも斧がなければ破壊できないだろう。
当然ながら、塔の内部には斧はなかった。
ゆっくりと石段を上って二階の部屋に入る。
バルコニーに繋がる窓を開けて、腰より高い位置にある手すりから下を覗く。
このバルコニーは一階の窓とは違う方角を向いていて、真下には深い川が流れていた。
今ならマルヴィン殿下がなぜこの塔を選んだのか、よく分かる。
ここは恐らく、罪を犯した貴人を閉じ込める目的で建てられたのだ。
一階の庭は高い塀で囲われていて、二階のバルコニーの真下は崖。この塔から出たいのならば、バルコニーから身を投げるしかない。
つまり、自由と引き替えに死ぬしかない。
「私が死を選ぶ訳がないと思ってるんでしょう……」
私は室内に戻り、狭い台所で使っていた木の椅子を持ってきた。
それをバルコニーの手すりの前に置いて、座面に上がり、さらに手すりの上に片足を置く。
眼下には、ごうごうと激しい音を立てながら川が流れていた。
(一生ここで耐えるくらいなら、死んだ方がましよ)
もう涙は枯れたと思っていたのに、また頬から雫が落ちた。
私は何のために生まれたんだろう。
どうしてこんなふうに一生を終えないといけないんだろう。
泣きながら手すりを蹴った。
一瞬後、私の体は冷たい水に叩きつけられた。
痛みと息ができない苦しさでもがきながら、私の意識は遠のいていった。




