31 いわくつきの遭難者
二か月ほど、穏やかな日々を過ごした。
ジル様がランドルト人の入国を禁止してくれたお陰で、私はマルヴィン殿下の陰に怯えることなく日々を送っている。
ただ、自分が平和に過ごすほどに、他の人はどうなのかと不安になってきた。
(何の罪もないランドルト人も、巻き込まれちゃってるのよね。仕事でこっちに用がある人は大変だろうな……)
何かの材料をリジェリアまで買い付けに来るバイヤーや、貿易の仕事に就いている人間は困難を極めているだろう。
それに家族の誰かがリジェリアに住んでいる人は、会えなくて不安を覚えているに違いない。
「早く三か月たつといいな……」
ぽつりと呟きながら、海岸に繋がる石段をゆっくりと降りていく。
私は休日には必ず海に行くことにしているのだ。
店を出てから狭い路地を抜けると高台に出て、急に視界が開ける瞬間がたまらない。ふわっと風が私の全身を撫でて、目の前には青い海が広がる。
高台から白い砂浜が広がる海岸までは、長い石段が続いている。
一段ずつ下りていくたびに海が近づき、私の胸はどきどきと高鳴る。
「着いた……!」
最後の段を下りたら、持っていたバスケットを木陰に置いて、サンダルを脱いで海に入る。
今は秋だから海水は冷たいものの、リジェリアは日差しがさんさんと降り注ぐ国だから、日なたにいれば寒くはない。
ふと顔を上げると遠くの方で海水浴をしている親子までいる。
「獣人ってすごい……! 寒くないのかしら」
よく見ると、彼らの頭には犬のようなふさふさした耳があった。
同じ獣人族でもクラウスさんは寒さが苦手のようで、しょっちゅう肩こりに悩まされているようだから、皆が同じ特性でもないのだろう。
太陽が中天に差し掛かり、時刻は昼になったようだった。
私は日陰に横たわる朽ちた樹木に座り、バスケットを開けた。
中には温かい薬草茶が入った水筒と、新鮮な野菜と焼いた鶏肉を挟んだサンドイッチが並んでいる。
サンドイッチに挟んだ野菜はレタスとトマトで、鶏肉は照り焼きにしたから濃厚な味わいだ。
思いっきりかぶりつくと口の中に肉汁が溢れた。
「ん~っ、おいしい!」
夢中で食べてから、温かな薬草茶を少しづつ飲む。最近は多忙すぎて体のあちこちに疲れがたまっていたから、血流をよくするお茶にした。
(こういう時は水分をたくさんとって、循環をよくしないとね)
疲れている時に自分の体に祝福の力を使うと、特にリンパ節の辺りに赤いモヤが見えたりする。
あれは多分、風邪をひきかけているのだろう。そういう時は血流を促す薬草茶をどんどん飲んで、体をがんがん温めて、温かい布団を被って寝てしまう。
すると翌朝にはちゃんと体調が戻っているから、リジェリアに来てからは風邪を引かなくなった。
塔にいた頃は回復薬を作る時間に追われて、自分のことは後回しだったせいか、よく体調を崩していたのが懐かしい。
その時、私は自分の感情の変化に気づいて、一人でふふっと笑ってしまった。
(懐かしいと思えるくらい、精神的に回復したんだわ)
きっと何年かしたら、笑い話になっていることだろう。
足元を見ると、海水で濡れた足はすでに乾いて砂が落ちていた。
「そろそろ気温が下がる頃ね……」
昼は日差しがあって温かいけど、秋は昼下がりになるとがくんと気温が落ちていくから油断は禁物だ。
私は後片付けをして立ち上がった。
もう一度海を見渡すと親子はすでに帰ったようで、海水浴をしている人は誰もいなかった。
ただ沖合にぽつんと小舟が浮いている。
「舟? こんな場所に?」
王都グラーダの海は湾だけど、外洋に繋がっている。あんな小さな一人か二人しか乗れないような小舟で、外洋へ出る獣人はまずいない。
漁業を仕事にする人たちは、もっと大型の船を使うはずだ。
「大変……! きっと流されたんだわ。乗っている人は無事かしら」
小舟はゆらゆらと波間を漂いながら、少しずつこちらへ近づいてくる。
私はサンダルを脱ぎ、急いで船に向かって駆けだした。のんびりしていたら、海流のせいで船はまた沖合に流されてしまうからだ。
腰まで海に浸かって船にたどり着き、誰か乗っているのかと確認すれば、船底には布でくるまれた塊がごろんと転がっている。
「な、何これ? 人間……じゃない?」
黒い布の塊はぴくりとも動かず、生き物には見えなかった。
(びしょ濡れになってここまで来たのに……!)
焦った私が馬鹿みたいだと脱力した瞬間、その布の塊ががばっと起き上がった。
「きゃあっ……!?」
突然動き出した人物は黒いフードを目深に被っていて、私の腕を乱暴に掴んだ。
「やっと会えたな、エレナ」
聞き覚えのある声だった。しかも、絶対に二度と聞きたくないと思っていた声だ。
最悪の事態が起きたことを悟って震えていると、彼は被っていたフードを取った。
「マ、マルヴィン殿下……!? どうしてここに」




