30 亡命
ミラベルさんが店から出て行って何時間か経過し、閉店の後片付けをしていたらジル様とクラウスさんがやってきた。
「いらっしゃいませ。何かお召し上がりになりますか?」
「いや、俺たちのことは構わなくていい。すぐに出るから」
「では薬草のシフォンケーキを、生クリーム付きで」
ジル様とクラウスさんの発言はほぼ同時だった。
クラウスさんをぎろっと睨むジル様が面白くて、私はくすくす笑いながら二人をテーブルに案内する。
生クリーム付きのシフォンケーキ、そして温かい薬草茶をお出しすると、ジル様が何かの書類を私に差し出した。
「亡命の手続きをしないか?」
「亡命……ですか? 戦争や貧困によって祖国を出た人が申請するんですよね?」
確か前世でも、戦争によって祖国を捨てるしかなかった人々が、難民申請しているのをニュースで見た覚えがある。
「私は亡命するほど困ってないと思うんですけど」
首を傾げていると、ケーキを口に運んでいたクラウスさんが「招かれざる客人が来ましたのでね」と言った。
「今日、城にとんでもないお客さんが来たのですよ。ミラベルというランドルト人でしたが」
「あっ……、お城にまで行っちゃったんですか?」
「その言い方だと、やはりこの店にも来たんだな。あの女は」
最後の「あの女は」の部分は、びっくりするくらい声が低かった。
私が目を丸くしていたら、ジル様は気遣うような視線を向けてくる。
「何か言われなかったか? 商売を妨害されるようなことがあったら、ランドルトに抗議する」
「お、大げさですよ……。大丈夫です、お客様も私の味方になってくれましたし」
「まったく、恋する男は怖いですねぇ」
私の言葉に被せるようにしてクラウスさんが何か言ったものの、私にはよく聞こえなかった。
まぁ、気にしなくて大丈夫だろう……多分。
「陛下はエレナさんが大事すぎて、話が脱線しやすいんですよね。私が説明しましょう。エレナさんが我が国に亡命すると、あなたの身に何かあった時に私たちは動きやすくなります。具体的に言うと王家から正式に抗議文を表明したり、兵を動かしたりできます」
「へ、兵ですか? そこまで?」
「最悪の事態が起きたらな。あのミラベルという女はマルヴィン王子の婚約者だっただろう。下手をするとマルヴィンにまで情報が伝わって、奴がここまで来るかもしれない」
「マルヴィン殿下が……」
名前を口にしただけで、背筋がぞっとする。
思わず自分を抱き締めるように腕を回していると、クラウスさんが言った。
「それも見越して、三か月ほどランドルト人の入国を禁じる措置を取ります。普通はこれで諦めると思うんですが、あの性悪マルヴィン王子ですからね……」
「何をしでかすか、分かったものじゃない。俺たちには想像もつかない方法でここまで来るかもしれないからな」
「それで亡命するってことなんですね。分かりました、お二人にお任せします」
渡されたペンで、書類に『エレナ』とサインをした。
受け取ったクラウスさんは満足そうに紙を眺めている。
「すぐに審理官に回しますが、まぁ問題なく通るでしょう。あなたのお客さんは城の中にも大勢いますからね。これで薬師の聖女は我が国の住人だ、とか喜んで言いそうです」
「確かに言いそうだな……。審理官は年配の文官が多いし」
ジル様が苦笑しながら言い、私は数日後に何事もなくリジェリアへの亡命者となったのだった。




