大人になった清明は口説く
大人になった清明は、教えられたことをきちんと学習した。
人の保つべき間合い。触れても許される距離。踏み込んではならない領域への作法。そして、「拒まれないこと」と「許されていること」は決して同義ではないという事実。その全てを、清明は大真面目に反芻し、時間をかけて覚えた。
――そして覚えた上で、なお諦めることはなかった。
好きであること自体をやめる理由にはならない。触れたいと思うことも、近づきたいと願うことも、それ自体が悪いわけではないと道満は言った。ならば、問題はその扱い方なのだろうと、清明はそう理解した。
若い頃の自分は、確かに危うかったのだと思う。拒まれなければ進んでいいと考え、嫌なら止めてくれと口にして、それで十分だと思っていた。だが、今なら分かる。相手が言葉にしない時こそ、こちらが先に余白を作らなければならない。逃げられる隙間を残し、答えを急がず、ひとつ触れるたびに相手の静けさを確かめる。その手順を覚えた。
それでも、こはくへ触れたい気持ちは少しも薄れなかった。むしろ、間合いを覚えるほど、触れられる一瞬の重みが増していった。
「触れる」
清明は必ず、行動の前にその一言を置く。
執務の合間、こはくが静かに書類を見つめているその横で、清明は一声かけてから、そっと肩へ手を伸ばす。驚かせないように。拒絶するための猶予を与えるように。その呼吸の一拍を、彼は静かに待つ。
こはくが身をかわさなければ、そこで初めて肌を触れ合わせる。
細い指先でそっと肩へ触れ、流れる髪を優しく払う。頬にかかった艶やかな一房を耳の後ろへ滑り込ませる時、清明の胸にはいつも静かな喜びが広がった。強引に奪ったものではない。急かして得たものでもない。今この瞬間だけ許された距離だと思えば、その僅かな接触でさえ十分に満たされる。
「少し借りる」
日常の挨拶のようにそう言って、手を取ることもある。指先に触れ、その掌を包み込み、冷えた熱を確かめるように軽く撫でる。決して強く握りしめることはしない。拘束もしない。嫌ならいつでもすり抜けられる程度の、柔らかな力しか使わない。
それでも、近い。
近いと思うたびに、胸の奥が熱くなる。
「好きだ」
その言葉も、もう清明にとっては特別な儀式ではなかった。
「今日も綺麗だ」
「会えて嬉しい」
「触れられるのは、やはり嬉しい」
淡々と、至極当然の理を述べるように口にする。冗談めかして濁す必要も、照れ隠しで逸らす必要もない。自分の中でそれは、すでに日々の一部になっていた。
好きだと思う。だから伝える。
触れたいと思う。だから許される距離を探す。
伴侶になりたいという願いは、今も変わらない。
ある日、清明は執務室でこはくを優しく抱き寄せていた。
きつく縛るような抱擁ではない。逃げられないように閉じ込めているわけでもない。ただ静かに、腕の中へと囲い込む。こはくは一切の抵抗を見せず、清明の腕に収まったまま、いつものように淡々と書類に目を落としていた。
その重みが、清明には嬉しかった。
軽い。けれど確かに腕の内にいる。
拒まれていないからといって、許されていると決めつけてはいけない。そう教わったことは覚えている。だから清明は腕に力を込めすぎず、いつでも抜け出せるだけの余白を残していた。こはくが少しでも身を引けば、そのまま離すつもりだった。
その時、扉が開いた。
「……何をしている」
氷のように低い声だった。
道満だ。
清明は抱きすくめた姿勢のまま、ちらりと視線だけをそちらへ向けた。
「抱いている」
「見れば分かる!」
道満の怒鳴り声が即座に返る。
清明は、やはり怒るのかと思った。だが、昔のように慌てはしない。道満がなぜ怒るのかも、以前よりは少し分かる。こはくを守ろうとしているのだろうし、自分の距離の詰め方が気に食わないのだろう。
けれど、こちらも何も考えていないわけではない。
「嫌なら言ってくれ」
腕の中のこはくへ向けて、静かに語りかける。
「離れる」
そう言って、ほんの僅かに腕の力を緩めた。本当に望めば、容易に抜け出せるだけの隙間を作る。こはくは微動だにしなかった。
ならば、このままでいいのだろうか。
清明はそう判断し、再び腕を元の位置へ戻した。
「貴様……!」
道満はずかずかと大股で歩み寄り、清明の腕を乱暴に掴んで引き剥がした。
「離れろ!」
「断る」
即答だった。
昔の自分なら、ここで気まずさに押されて身を引いたかもしれない。だが今は違う。拒まれていないことだけを理由にするつもりはない。確認もしている。逃げられる余地も残している。困らせるつもりもない。その上で、清明は自分の意思として、こはくに触れていた。
「拒まれていない」
「だから何だ!」
「確認もしている」
「そういう問題ではない!」
「毎回そう言うが、未だに何が問題なのか曖昧だ」
清明は本気でそう思っていた。
嫌ならやめる。無理強いはしない。拒まれれば退く。困らせるつもりもない。その上で、好意があるから触れている。自分なりに道満の教えは守っているつもりだった。
「嫌ならやめる」
「無理強いはしない」
「拒まれれば退く」
「困らせるつもりもない」
「その上で、私は好意があるから触れている」
言葉にして並べるほど、自分の中では筋が通っているように思えた。だが道満は、心底嫌そうに顔をしかめる。
「人間は何故そう成長する……」
呪詛のような声だった。
清明はわずかに片眉を上げる。
「成長はするだろう」
「するな」
「無茶を言うな」
どこまでも平然と返しながらも、清明は内心で少しだけ考えていた。道満は何を恐れているのだろう。自分がこはくに触れることそのものか。それとも、触れた先に自分がまだ何かを望んでいることか。
その問いの答えは、すぐには出なかった。
その対峙の横で、こはくは相変わらず無言のまま、清明の仕立ての良い袖を指先で小さく、けれど確かに掴んでいた。
その微かな重みを感じた瞬間、清明の思考はふと止まる。
逃げられる隙間は残していた。離れることもできた。
それでも、こはくは袖を掴んでいる。
清明は視線を落とし、ほんの僅かに口元を和らげた。胸の奥が、静かに満ちていく。勝ち負けの話ではないはずなのに、それでも道満へ向けて言わずにはいられなかった。
「ほら」
静かに、確信を込めて言う。
「嫌ではないらしい」




