清明は分からない
「……こはく」
声が、深く低く落ちていく。
そのまま、もう一度距離を詰めかけた、まさにその瞬間だった。襖が猛烈な勢いで左右に撥ね開いた。
「何をしている?!」
乱入してきたのは道満だった。清明の肩がびくりと跳ねる。
振り返るよりも早く、道満が烈風のごとく部屋へと踏み込み、清明の襟首を鷲掴みにして強引に引き剥がした。
「っ、道満?!」
「貴様!」
怒鳴り返しながら清明を後ろへと投げ飛ばし、道満はそのままの勢いでこはくを自分の方へと引き寄せる。まるで大切なものを外敵から庇うように、自らの腕の内へと囲い込み、獰猛な目で清明を睨みつけた。
「何をしていると聞いた!」
清明は数歩よろめいたものの、ようやく壁際で体勢を立て直す。
「確認していた」
「何をだ!」
「どこまで嫌ではないかを」
その答えは、清明にとっては真面目なものだった。触れる前に問い、拒まれないことを確かめ、少しずつ距離を詰めていたつもりだった。乱暴に踏み込んだつもりはない。だからこそ、道満がここまで怒る理由が、すぐには掴めなかった。
「確認の手順を間違えるな!」
しかし清明の表情は至って真面目そのものだった。
「嫌がっていなかった」
「そういう問題ではない!」
道満は苛烈にその言葉を切り捨てる。
「拒まれなければ何でもしていいわけがあるか!」
清明が一瞬だけ言葉を失い、押し黙る。
その言葉は、予想していなかった場所から飛んできた。拒まれなければ、許されているのではないのか。嫌であれば止める。嫌でなければ続けてもいい。清明の中では、ひとまずそう整理されていた。
だが道満は違うと言う。
違うと言われたからには、そこには自分の知らない理屈があるのだろう。
「……それは、そうか」
「そうだ!」
道満は忌々しげに吐き捨てる。
「貴様は何故そういうところだけ素直に先へ進む!」
清明は何か反論しかけたものの、結局は口を閉ざした。そして少しだけ気まずそうに、視線を斜め下へと逸らす。
道満は苛立ちを隠せないまま、なおもこはくを腕の内側へと深く庇い込み続けた。
「主は否定しない、だからこそ加減しろ」
低く、有無を言わせぬ強さで言い切る。
「お前が考えろ」
清明は完全に押し黙ってしまった。
こはくは否定しない。だからこそ、自分が考えなければならない。
その言葉は、清明の中でゆっくりと形を取り始めた。今まで、こはくが拒まないことを前へ進む理由にしていた。けれど、それだけでは足りないらしい。相手が何も言わないなら、自分が止まるべき場所を見つけなければならない。
道満はなおも険しい表情のまま、こはくを抱え込んで清明を鋭く睨み据える。
「……今後は私のいないところで余計なことをするな」
清明が不満げに眉を寄せる。
「前は、いないところでと言った」
「今回は意味が違う!」
道満の張り裂けんばかりの怒声が、静かな自室の空気を激しく震わせた。
清明が完全に押し黙ったあと、部屋にはどこか奇妙な静けさが居座り始めた。
道満は依然としてこはくを腕の内へ庇ったまま、険しい顔で清明を凝視している。数歩引いた場所で立ち尽くす清明は、彼にしては珍しく、本気で自らの内省に沈み込んでいた。
「……嫌がっていないなら、問題ないわけではない」
ぽつりと、自分に言い聞かせるように清明が呟く。道満は眉を寄せたまま、吐き捨てるように言葉を返した。
「当たり前だ」
「何故だ」
道満は一瞬、次の言葉に詰まってしまった。
清明は本気で知りたかった。責めたいわけではない。言い負かしたいわけでもない。ただ、次に誤らないためには理由が必要だった。理由の分からない禁止は、守ることはできても、応用が利かない。
「……何故でもだ」
「説明になっていない」
「黙れ」
即座に切り捨てるが、清明は決して一歩も引こうとはしない。
「知る必要がある」
その瞳は真剣だった。
「次に誤ると困る」
清明にとって、それはかなり切実なことだった。こはくを困らせたいわけではない。傷つけたいわけでもない。道満を怒らせること自体が目的でもない。ならば、自分が何を間違えたのかを知らなければ、次も同じ場所で躓いてしまう。
こはくは相変わらず無言のまま、硝子細工のような瞳で激論を交わす二人を見つめていた。
道満はしばらく苦渋を噛み締めるように黙り込んだあと、ようやく重く低い息を吐き出した。
「……人間はな」
壊れやすいものを扱うように、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「好いた相手には触れたくなる」
清明は遮ることなく、黙ってその言葉を聴く。
「近づきたくもなる。確かめたくもなる」
「それ自体はおかしくない」
清明がわずかに、納得したように頷く。
「だろう」
「最後まで聞け」
道満はそれを即座にピシャリと切る。
「問題はその先だ」
清明は再び口を閉ざす。
道満は自らの腕の中に収まるこはくを一度だけ見下ろし、それから清明へと視線を戻した。
「触れたいと思うのと、触れていいは別だ」
「欲しいと思うのと、奪っていいも別だ」
「拒まれないことと、許されていることも違う」
清明の眉が、わずかに不審げに寄る。
「……同じではないのか」
「同じなものか」
道満は吐き捨てるように応じた。
「人間は口に出さない」
「嫌だと言えぬこともある」
「分からぬこともある」
「拒まぬのは、拒めぬだけの時もある」
その言葉は、清明の胸に重く落ちた。
拒まれないことと、許されていることは違う。考えたことがなかったわけではない。だが、こはく相手では特に、その境界をどこに置けばいいのか分からなかった。こはくは人間ではない。人のように眉を寄せたり、声を上げたり、押し返したりすることが少ない。だから清明は、嫌なら止めるだろうと考えていた。
だが、嫌だと言えないこともある。
拒まないのではなく、拒めないだけのこともある。
その可能性を、清明は自分の中で十分に重く扱っていなかったのだと気づいた。
「…………」
清明は言葉を失った。
喉の奥に、先ほどまでとは違う熱が残る。触れたいという欲そのものは消えない。こはくの手の冷たさも、髪の柔らかさも、頬に触れた時の微かな呼吸の揺れも、まだ指先に残っている。
けれど、それが自分の欲であることも、今ははっきり分かっていた。
好いた相手に触れたいと思うのは自然だと、道満は言った。おかしくはないとも言った。けれど、その先には線がある。相手が何も言わないからといって、その線を消していいわけではない。
清明は珍しく、すぐに答えを出せなかった。
自分は誠実であろうとした。確認もした。嫌なら止めてくれとも言った。けれど、その確認の仕方自体が、そもそも足りなかったのかもしれない。こはくが拒まないことへ、自分に都合の良い意味を重ねていたのかもしれない。
道満は深い沈黙に落ちている。
清明には、その沈黙の中身までは分からない。ただ、道満が本気で怒っていることは分かったし、その怒りの底に、こはくを守ろうとする強い意志があることも分かった。
思ったよりも良くない。いや、かなり良くなかったのかもしれない。
清明は、自分が未知の理を学ぶ時のように、目の前の問題を一つずつ見つめ直そうとしていた。自分はこはくが好きだ。触れたい。近づきたい。伴侶になりたい。そこまでは変わらない。
だが、その全てをどう扱うべきなのかが分からない。
「……これは」
道満が低く、呻くように漏らす。
「思ったより大変かもしれん……」
そんな道満の様子を見て、清明が真面目に首を傾げた。
「何がだ」
道満は顔を上げた。そして、心底嫌そうに、呪わしげな視線を清明へと向ける。
「お前だ」
「お前だ」と突きつけられ、清明はそれ以上反論を試みることなく素直に黙り込んだ。
道満はこはくを腕の内に抱きすくめたまま、深々とため息を吐き出している。その横顔には、心底疲れ果てたような陰影が刻まれていた。
清明はその疲弊した顔を見つめながら、珍しく自らの内面へと深く潜り込んで考え込む。
自分のあり方の何が、そこまで面倒なのだろうか。何がこれほどまでに、あの道満を骨の髄まで疲れさせているのだろうか。
しばらく部屋を重苦しい沈黙が支配したあと、清明はぽつりと静かに口を開いた。
「……私の気持ちは、大変らしいな」
道満が不快そうに眉をひそめる。
「そういう言い方をするな」
だが、清明の眼差しはあくまで真剣そのものだった。決して軽口でも嫌がらせでもない、本気でその事実を重く受け止めている顔だった。
好意がある。触れたいと思う。近づきたいと思う。そして、将来的には伴侶になりたいと願っている。
そのどれもを、彼は真面目に一本ずつ積み上げてきたのだ。隠す気も、濁す気も、最初から毛頭なかった。
だが今、道満はその自らの好意を“面倒”だと切り捨てた。大変なことだとも言った。
であるならば、自分のこの募る好意は、少なくとも扱いを一歩誤れば相手にとっての重い負担になってしまうのだろう。
清明は静かに視線を足元へと落とした。こはくに負担を強いたいわけではない。困らせて曇らせたいわけでもないのだ。
同時に、道満に余計な苦労を背負わせたいわけでもない。あんな心底疲れ切った顔など、別に好んで見たいわけではないのだ。
ただ、純粋に好きなのだ。
こはくが愛おしい。少しでも近くにいたい。触れていたい。できることなら、もっとその先まで欲しい。
その胸に燃える気持ち自体は、爪の先ほども変わることはない。だからこそ、清明は本気で途方に暮れてしまった。
静寂の中で思考を巡らせる。一体、どうすればいい。
好きであることをやめる選択肢などない。離れる気もなければ、諦めるつもりも毛頭ない。
だが、好きなままで相手を困らせたくはないのだ。こはくに大変な思いを強いて傷つけたくはないし、道満に頭を抱えさせたいわけでもない。
それでも、やはり触れたいと願ってしまう。一人の男として、自然に。ごく当たり前の本能として。
どうやらその当たり前の衝動こそが、思ったよりも厄介な毒を孕んでいるらしかった。
清明はしばらく黙ったまま思考の迷路を彷徨い、それからゆっくりとこはくを見つめた。
無言のまま、静かにこちらを見返す揺るぎない視線。
好きだと思う。やはり、どうしようもないほどに。
少しの間葛藤した末、清明は真面目な顔を崩さないまま、決意を秘めて口を開いた。
「……少し考える」
道満が泥棒を警戒するような顔で眉をひそめる。
「何をだ」
「どうすれば、困らせずに好きでいられるか」
あまりにも真摯で、一点の曇りもない声音だった。
道満は一瞬、返す言葉を失って立ち尽くす。
清明は本気で考えている。想いをやめるつもりも、諦める気も一切ない。その上で、誰も困らせずに済む幸福な方法を探し出そうとしているのだ。
「……まず、人の距離を覚えろ」
清明は素直に、その言葉を諾と受け入れた。
「分かった」
「本当に分かっているか?」
「分からないから覚える」
一点の曇りもない真顔で返され、道満はみたび自らの額を押さえた。
こはくは相変わらず無言のままだ。その静かな視線の前で、清明はなおもしばらくの間、深く考え込み始める。
好きだ。触れたい。近づきたい。だが、決して困らせたくはない。
その矛盾する全ての想いを胸に抱えたまま、これからどう振る舞うべきなのか。青年らしく、どこまでも真面目に、彼は悩み始めていた。




