青年になった清明、さらに一歩踏み込む
道満に「それを私のいないところでやれ」と苦々しく吐き捨てられた清明は、驚くほど素直にその言葉を受け止めていた。
次からはそうするべきなのだろうと、本気で合点がいったのだ。道満の機嫌がどうあれ、確かにあの執務室という公の場で口にする必要はなかった。伝えるべき相手はこはくただ一人であって、決して道満ではないのだから。
だからこそ数日後の夜、清明は本当にこはくの自室を訪ねた。
夜の帳がすっかりと下り、執務も終わりを迎えて、屋敷の喧騒もすっかり落ち着いた頃合いのことである。静まり返った部屋の中、こはくは微かな灯りの下で一人静かに本を読んでいた。
整えられた香の薄霞が肺の奥を満たす。
清明は襖の前で一度だけ深く息を整え、入室の気配を告げる。静寂の中に拒まれないのを確認してから、そっと中へ足を踏み入れた。
こはくが顔を上げる。無言のまま、ただ水面のように静かな視線だけをこちらへ向けてくる。
清明はその正面へと腰を下ろした。
「先日の続きだ」
その声はどこまでも真面目だった。
「道満の前ではやめろと言われたから、今日は二人きりで来た」
こはくは無言のままだ。清明は構わず、自らの胸中を語り続ける。
「前にも伝えた通り、将来的には伴侶になりたいと思っている」
「今すぐ返事が欲しいわけじゃない」
「ただ、主としてではなく、こはく個人に好意があることは知っていてほしい」
静かに、そして芯の通った真っ直ぐな声で告げる。
こはくはそれを否定しない。視線を逸らすことすらしない。ただ、黙って清明の姿を瞳に映している。
それだけのことで、清明は胸の仕えが下りたように少しだけ息をついた。拒まれてはいない――そう前向きに判断する。
「……触れても嫌ではないか」
確認のために、まずは言葉を先行させる。こはくは無言のまま、石像のようにピクリとも動かない。
そこには、明確な拒絶の気配はなかった。
清明はそっと慎重に手を伸ばし、こはくの手に触れた。細い指先。その熱は驚くほど低い。人のようでいて、どこか人とは違う異質な温度。
それでも、振り払われることはなかった。
清明は少しだけ指先に力を込め、その手を包み込むようにそっと握りしめる。それでもなお、拒まれることはない。
その事実に、胸の奥がじわりと熱を帯びていく。
「……好きだ」
今度は、零れ落ちるような小さな声だった。こはくは無言を貫いていたが、その手は握られたままだった。
清明は思わず息を呑む。喉の奥がわずかに熱い。もっと触れたいと、もっと近くでその存在を確かめたいと、ごくありふれた人間らしい衝動が首をもたげる。
「もう少し近くへ行っても」
問いかけるが、やはり拒まれない。
清明は膝を寄せ、二人の距離を狭めていく。握りしめた手を決して離さぬまま、空いた方の手でこはくの滑らかな髪へ触れた。夜の静けさを纏ったような黒い束はさらりと指の間をすり抜けていき、どこまでも柔らかい。
こはくは逃げようとはしなかった。
そのあまりの静けさに反比例するように、清明の鼓動だけが確実に速くなっていく。
「……嫌なら、止めてくれ」
熱を帯びた声が、心持ち低くなる。
こはくは、変わらず無言だった。
清明はそっとその白い頬に触れた。視線が至近距離で交差し、互いの呼吸さえ触れ合いそうな距離まで落ちていく。
拒まれない。近い。あまりにも、近い。
人間の青年として、好きな相手に触れたいと願うのはごく自然なことだった。触れて、確かめたくなるのも、その先を欲しがるのも、生き物としての摂理だ。
こはくは否定しない。押し返しもしない。拒絶の壁を築きもしない。
だからこそ、どこまで足を進めていいのか、清明にはその境界線が分からなかった。
指先が頬から耳の後ろへと滑り、そのまま喉元へ落ちる。その触れた瞬間、こはくの呼吸がわずかに揺らいだ。
その微小な変化に、清明の息が止まる。
触れれば、微かだが返ってくる。静寂の奥底に、確かに反応があるのだ。
喉が焼けるように熱い。理性の手綱が、ほんの少しだけ遅れかける。




