青年になった清明の申告
執務室は静まり返っていた。
紙をめくる微かな音、筆が走る滑らかな気配、窓の外を通り抜ける風の音だけが、部屋の中に薄く満ちている。清明はこはくの向かいに座り、手元の書類へ視線を落としていたが、文字の内容はもうほとんど頭に入っていなかった。
今日は、言うと決めていた。
少年の頃のように、ただ好きだと言うだけでは足りない。あの頃の自分は、こはくの隣にいたいという気持ちを、まだ幼い言葉でしか扱えなかった。けれど今は違う。背も伸びた。護衛としての務めも覚えた。屋敷の中で自分がどう立つべきかも、少しずつ分かってきた。それでもまだ未熟であることも知っている。だからこそ、今すぐ答えを求めるのではなく、まず自分の考えをきちんと伝えておくべきだと思った。
こはくはいつものように机の向こうに腰掛け、無言のまま書類を見ている。その横には道満が立っていた。本来なら、ただの報告で終わるはずだったのだろう。だが清明の中では、今日この場で言うことに意味があった。こはくに向かって、自分の意思を隠さず差し出すことに。
清明は手元の書類を静かに置いた。
「一つ、申告がある」
声に少し硬さが混じったのは自分でも分かった。道満の気配がぴくりと動き、こはくが静かに視線を上げる。その赤い目を見た瞬間、清明の胸の奥が少しだけ熱くなる。怖いわけではない。ただ、真面目なことを言おうとしているのだと、自分の身体が分かっているだけだった。
清明はこはくをまっすぐ見つめた。
「将来的には、伴侶になりたいと思っている」
その直後、横で道満が盛大にむせた。
「ごほっ――何」
清明は少しだけ道満を見る。そんなに驚くことだろうか、と思う。少年の頃から言っていたことだし、今になって急に変わったわけでもない。ただ、昔より言葉を選んだだけだ。
道満は咳を押さえながら、低い声を絞り出した。
「何を言い出す」
「申告だ」
「何の」
「将来設計の」
自分ではかなり整理して言ったつもりだった。好意だけで突き進むのは幼い。将来を望むなら、立場や責任や積み重ねも必要になる。だからこれは告白でありながら、ただの告白ではない。こはくの隣に立つために、自分がどうなりたいかを伝えるための申告だった。
道満が額を押さえているのを見ながら、清明は続ける。
「好意がある」
「知っている」
道満の返事は早かった。
清明は少しだけ頷く。知っているのなら話は早い。隠していたつもりはないし、道満に知られて困ることでもない。
「将来的には、護衛以上の立場を望んでいる」
「言い換えても同じだ」
「伴侶になりたい」
「二度言うな」
道満はすぐに切り捨てるが、清明の中では、二度言う必要があった。大事なことだからだ。曖昧にしておけば、ただの若い感情だと思われるかもしれない。そうではないと、きちんと伝えたかった。
「主への忠誠とは別の話だ」
「分けるな」
「分ける必要がある」
そこは譲れなかった。
「守るべき主として仕えることと、こはく個人に好意を持つことは別だ」
道満は苦いものを噛んだような顔をする。
「お前はそういうところが本当に面倒だな」
面倒なのだろうか、と清明は思う。けれど、自分の中では分けなければ不誠実だった。護衛としてこはくを守りたい気持ちと、一人の相手としてこはくの隣にいたい気持ちは、似ているようで違う。混ぜたままにすると、どちらにも失礼な気がした。
清明は改めてこはくを見る。
「もちろん、今すぐ返答を求めるつもりはない」
こはくは何も言わない。その沈黙には慣れている。拒まれていないことと、受け入れられていることが同じではないことも、もう昔よりは分かっている。だから急かすつもりはなかった。
「まだ自分は若い。未熟でもある」
「護衛としての信頼も、屋敷での立場も、積むべきものがある」
「その上で、将来的には隣に立てる位置を望みたい」
言葉にすると、胸の奥が静かに落ち着いていく。ずっと思っていたことを、ようやく形にして置けた気がした。
横で道満がまた咳き込む。
「っ、げほ……お前……」
清明は少し不思議に思う。道満はいつも、清明がこはくへの気持ちを口にすると疲れた顔をする。何がそこまで道満を動揺させるのか、完全には分からない。ただ、最近は少しだけ察している。道満もまた、こはくを特別に思っている。だからこそ、清明の言葉を聞きたくないのかもしれない。
「正気か」
「正気だ」
これは即答できた。
「かなり真面目に考えた」
「考えるな」
「何故」
「考えるな」
道満は本気で嫌そうだった。だが、考えずにいる方が難しい。こはくの隣に立つこと、伴侶になること、そのために自分に何が足りないのか。そういうことを考えるのは、清明にとって自然なことだった。
「なぜだ」
「なぜでもだ」
「そういうものは黙って胸にしまっておくものだ」
清明は少し考えた。胸にしまっておく、という考え方は分からなくはない。秘めた想いというものがあることも、本で読んだ。けれど、自分にはあまり向いていないと思う。
「伝えなければ伝わらないだろう」
「伝わらなくていいこともある」
「それは不誠実だ」
道満が一瞬言葉に詰まる。清明は自分が何か刺したのだと何となく分かったが、訂正はしなかった。本当にそう思ったからだ。
こはくはただ静かにこちらを見ている。硝子玉のような瞳からは、肯定も拒絶も読み取れない。けれど、その沈黙を拒絶だとは思わなかった。もし嫌なら、こはくは距離を置く。近づかない。触れない。そういうところは、少しずつ分かってきた。
「今すぐでなくていい」
「返答も急がない」
「ただ、そう考えていることは知っていてほしい」
言い切ると、道満がついに両手で頭を抱えた。清明はそれを横目で見る。そこまで困らせるつもりはなかったが、道満が困るからといって、自分の気持ちをなかったことにはできない。
「お前な……」
道満が低く言う。
「それを私の前で言うな」
そこでようやく、清明は道満を見る。
「何故」
「何故でもだ」
「気分が悪い」
清明はしばらく考えた。道満の前で言うから気分が悪い。ならば、道満のいないところで言えばいいのだろうか。それなら相手への配慮として成立する気がする。自分の目的はこはくへ伝えることであって、道満を不快にすることではない。
「そうか、なら次は二人きりの時に言う」
その瞬間、道満が三度目にむせた。
「お前はっ……!」
なぜまた怒られたのか、清明には少し分からなかった。配慮したつもりだったのだが、どうやら違ったらしい。
こはくは相変わらず深い沈黙の中にいる。だが清明は、その沈黙から目を逸らさなかった。今すぐ答えが欲しいわけではない。隣に立てるほど成熟した自信もまだない。ただ、いつかそうなりたいと願う自分を、こはくに知っていてほしかった。
青年になっても、まだ完全な大人ではない。分かっていることより、分からないことの方が多い。それでも、こはくを好きだという気持ちだけは、少年の頃よりもずっと輪郭を持って清明の中に根を張っていた。
道満が机を睨みつけて咳き込み、こはくが無言でこちらを見ている。その間で、清明は静かに背筋を伸ばしていた。
申告は済んだ。
ならば次は、その言葉に見合う自分になるだけだった。




