転生した清明 少年期
書庫は静まり返っていた。
屋敷の書庫は、最初に足を踏み入れた時から少し不思議な場所だった。
棚の並び方も、紙の匂いも、古びた革表紙や積み上げられた巻物の様子も、人間の世にある蔵書とそう変わらないように見えるのに、そこへ一歩入るだけで、清明にはすぐ分かる。
ここに収められているものは、ただ人間のための本ばかりではないのだと。
本の背から滲む気配が違う。頁を閉じたままでも、棚の暗がりから何かがこちらを見返してくるような気配がある。文字はただ読まれるためだけに並んでいるのではなく、そこに在ること自体が意味になっているようだった。
清明はそういうものに、昔から妙に馴染みがあった。
人の世で暮らしていた頃から、見えなくていいものが見えたし、触れなくていいものの気配も分かった。人にとって不自然なものを、不自然だと感じるより先に受け入れてしまう癖が、どうやら自分にはあるらしい。
だから屋敷に来てからも、異形に囲まれた暮らしに驚きはしても、拒絶はしなかった。怖いと思うより先に、ああ、こういうものなのか、と納得してしまうことの方が多かった。
その日も、清明は書庫の奥で道満と向かい合うように机についていた。
まだ背丈は低く、机の高さも少しだけ鬱陶しい。けれど、それはそれで悪くなかった。屋敷の仕事も、術の本も、覚えることはたくさんある。知らないことが少しずつ分かるようになっていくのは面白いし、分からないことがあれば道満に聞けばいい。
嫌そうな顔はされるが、聞けば大抵教えてくれるのだ。だから清明は、道満と一緒にこうして書庫にいる時間をわりと気に入っていた。
「そこまで読んでおけ」
そう言われて積まれたのは、人間用の基礎術式や結界の構造、祓いの組み方に関する本だった。道満はそれだけ言うと自分の巻物を広げてしまい、あとは紙をめくる音だけが静かに続く。
清明も最初は素直にそれを読んでいた。だが、しばらくすると机の端から少し外れた棚に、気になる一冊を見つけてしまった。
古い装丁で、紙というより薄い皮膜のような頁を持つ本だった。見覚えがある。こはくが時々読んでいるものと、よく似ている。
何が書いてあるのだろうと思った。
手に取って開いてみると、そこに並んでいたのは人間の文字ではなかった。だが、読めないとは思わなかった。むしろ、その逆だった。人の文字を読む時よりも、すっと頭に入ってくる。
清明は少しだけ不思議に思いながら、余白に注釈を書き始めた。人間の文字で読むより、こっちの形の方が意味のまとまりが見やすい。どこがどう繋がっていて、何を指しているのかが、線の流れだけで何となく分かる。
人間の文字は、同じことを言うのにも回りくどいことがあるが、これはそうではない。形そのものが意味を抱えていて、頁の上に置かれた瞬間に、それで完結しているように見える。
さらさらと筆を走らせていると、向かいから声が落ちてきた。
「……何を書いている」
顔を上げると、道満がこちらを見ている。少し嫌な予感でもしているような顔だった。
「注釈」
「何の」
「これの」
本を少し持ち上げて見せると、道満の表情が一段険しくなる。清明はそれを見て、ああ、勝手に別の本を取ったのはまずかっただろうか、と思った。だが本を戻す前に、道満の視線は清明の手元に釘付けになる。
「……おい」
「何だ」
「それが読めるのか」
読めるかどうかを問われると、少し変な気持ちになる。読めるものを読めると言う以外、何と答えればいいのだろう。清明は頁を見下ろし、それから素直に答えた。
「読める」
道満は言葉を失ったような顔をした。
「読める、だと」
「うん」
頷く。そこで嘘をつく理由もない。
「こっちの方が分かりやすい」
しばらく沈黙が落ちた。道満はまるで、清明が突然もう一つ頭でも生やしたのを見たような顔をしている。何がそんなにおかしいのか、清明にはよく分からなかった。
「人の文字より形が素直だ」
清明は頁を指先でなぞった。
「人間の文字は、同じ意味に対して言い回しが多い」
「でもこれは、形がそのまま意味だから早い」
言いながら、何となく気づく。多分、これを自然に読めること自体が、あまり普通ではないのだろう。けれど、清明にとっては、読めるものを読んだだけだった。
屋敷に来てから、こはくの周りには人間の理屈だけでは片付かないものがたくさんあると知った。ならば文字だってそういうものがあって不思議ではないし、読めるのなら読めばいい。
また視線を本へ戻して続きを読み始めると、道満の気配だけが妙に落ち着かなかった。言葉にはしないが、何か考え込んでいるのが分かる。清明は少しだけ可笑しくなった。
道満はたまにこうして、こちらを見て妙な顔をする。自分でも知らない何かを、道満だけが知っているような顔だ。
けれど、その時の清明は、深く考えなかった。道満が何を思っていようと、読める本が増えたことの方が大事だったし、こはくの使う文字に少し近づけたような気がして、それが嬉しかったからだ。
――育っている。
もしあの時の道満がそう思っていたとしても、清明は知らない。ただ、人の世では妙なものとされた感覚が、この屋敷では役に立つのだと知って、少しだけ胸が軽くなった。それだけだった。




