輪廻を跨いだ再会
屋敷の執務室は、少しだけ空気が硬かった。
紙の擦れる音がして、術式の名残が薄く漂っていて、見えない結界が部屋の端で静かに揺れている。その真ん中に、こはくがいた。いつも通り何も言わず、白い姿のまま立っていて、その目の前には机を挟んで獄露が座っている。
清明は、そこへ連れてこられていた。
ここへ来るまでにも、屋敷の中には人ではないものがたくさんいた。けれど、怖いとはあまり思わなかった。怖いと思う前に、こはくがいる場所なのだと分かってしまうからだ。こはくが平気な顔でそこにいるなら、きっと大丈夫なのだろうと、清明はそう思っていた。
獄露に促されて部屋の中央に立っていると、不意に足元の空気が揺れた。術が開く気配がする。次の瞬間、目の前に式神として召喚された一人の男が現れる。影の気配を纏った、月のない夜のような印象の男だった。
清明は、その顔を見た時、少しだけ不思議な気持ちになった。
初めて見るはずなのに、まったく初めての気がしない。
ただ、目の前の男がこちらを見た瞬間、ひどく驚いた顔をしたのが分かった。呼吸が止まったような顔だった。
「……っ」
その男は、清明を見たまま固まる。
それから、絞り出すように名前を呼んだ。
「……清明?」
なぜ自分の名前を知っているのか、と清明は思う。そして、どうしてそんな顔をするのだろうとも思った。そんなに変な顔をしていただろうか。清明は少しだけ首を傾げる。
すると獄露が、面倒事を扱うように淡々とした調子で話し始めた。
「今日から護衛に配属になる術師だ」
「人間だが、術を扱う。道満、お前が面倒を見ろ」
面倒を見る、という言葉に、清明は少しだけ男を見上げた。道満というらしい。ずいぶん嫌そうな顔をしている。
「……面倒を見る?」
「そうだ」
道満は獄露を見て、それからまた清明を見る。その視線は変だった。清明自身を見ているようでいて、もっと別の何かを見ているようにも見える。けれど嫌われている感じはしなかった。ただ、とても驚いているのだと分かる。
「よろしく頼む」
清明が頭を下げると、道満の顔が少しだけ歪んだ。
「……は」
小さく息を吐いてから、彼は言う。
「随分と忙しい再会だな」
再会、ということは、やはり前に会ったことがあるのだろうか。清明には覚えがない。けれど、道満の口ぶりからすると、少なくとも向こうは自分を知っているらしかった。
「現場判断だ。こいつは戦力になる」
「お前が潰すなよ。説明は以上だ、配置につけ」
獄露がそう言って話を切ると、道満は小さく肩をすくめる。
「護衛か、随分と大層な役職を貰ったものだな。精々頑張れ」
嫌味のような言い方だったが、突き放す感じはなかった。だから清明は素直に頷く。
「ありがとう」
その言葉に、道満が少しだけ妙な顔をした。だが何も言わない。
「……面倒な再配置だな」
独り言のようにそう言う声を聞きながら、清明はこの男のことを少し不思議に思っていた。初めて会った気がしないのは自分だけではないらしい。むしろ向こうの方が、よほど自分を知っているようだった。
それからしばらくして、清明は屋敷の中で仕事を覚え始めた。
ここには覚えることがたくさんある。術具の扱い、結界の見方、異形との距離の取り方、人外たちとの付き合い方。けれど、清明はそういうことを覚えるのが嫌いではなかった。分からないものが分かるようになるのは面白いし、道満に聞けば大抵のことは教えてもらえた。
嫌そうな顔はされる。ため息も吐かれる。だが、聞けば答えてくれるのだ。だから清明は遠慮しなかった。
ある日、執務室の端で術具の整理をしていた時だった。こはくは机に向かっていて、道満も近くで書類を見ていた。静かな時間だった。紙を重ねる音だけがして、こはくはいつものように何も喋らない。
清明は、ふと思ったことをそのまま口にした。
「こはくは優しいな」
道満は書類から目も上げずに言う。
「どこがだ」
「拾ってくれた」
「お前をか」
「そうだ」
清明は頷く。
昔は、見えなくていいものが見えるせいで、人に気味悪がられることがあった。見えないはずのものを見て、感じなくていいものを感じてしまう。それを言えば変な顔をされる。黙っていても、どこか居場所がずれる。そういうことは、子どもの清明にも分かっていた。
けれど、こはくは違った。
「前は、ああいうのは気味悪がられることの方が多かった」
「でもこはくは違った。気味悪がらなかった」
「見えてるなら使えばいい、みたいな顔してた」
それが清明には嬉しかった。難しい理屈ではなく、ただ嬉しかったのだ。自分が変でもおかしくても、そこにいていいと言われた気がした。だから好きになったのだと思う。
道満がそこでようやく顔を上げた。清明を見る顔は、少しだけ嫌な予感をしている時の顔だった。
「だから好きだ」
清明が言うと、道満の眉がひそめられる。
「……何だと」
「好きだ」
言い直しても、意味は変わらない。清明にとっては、とても自然な答えだった。
「初めての友達だし」
少し考える。友達、だけでは足りない気もした。もっと近くにいたいし、もっと特別であってほしいと思う。
「初恋でもあるかもしれない」
道満の手が止まる。清明はその反応を見て、そんなに驚くことだろうかと思った。好きなら好きでいいはずだし、こはくが特別なのは最初からそうだった。
「大人になったら、こはくと結婚しようと思う」
それはかなり前から決めていたことだった。いつ決めたのかははっきりしない。けれど、気づいた時にはそう思っていた。大人になったら、隣に立てるようになるかもしれない。こはくがどこかへ行っても、一緒にいられるかもしれない。そう考えると、なんだか良いことのように思えた。
「……お前」
ようやく道満が声を出す。
「それは……どうだろうな……」
歯切れの悪い返事だった。清明は首を傾げる。
「難しいか?」
何が難しいのか、清明にはよく分からない。好きな相手と一緒にいたいと思うのは、そんなに変なことだろうか。
「難しいというか」
道満は額を押さえ、しばらく何かを考えていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……お前はまず人間の常識から学べ」
「分かった」
清明は素直に頷く。けれど、どのあたりが常識ではないのかはやはり分からなかった。
自分に世間のことを詳しく教えてくれる大人などいなかったからだ。
こはくは相変わらず何も言わず、書類に目を落としたままだった。聞いていたのか、聞いていなかったのかも分からない。
それでも清明は、別に構わなかった。
すぐに答えが返ってこなくてもいい。大人になるまでに、ちゃんと伝わればいいと思っていたし、それまでは隣にいればいいと思っていた。
その時の清明にとって、好きなものは好きだと言うのは、ごく当たり前のことだった。道満がどうしてあんなに困った顔をしたのか、その時はまだ、よく分かっていなかった。




