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人ならざるものの世界と混ざる少年




人の気配が遠く退いた森の縁は、風が木の葉を鳴らすだけの静寂に満ちていた。

 

幼き日の清明がそこに一人佇む理由はいつも同じで、人の世の喧騒のなかでは、本来“ないはず”の怪異があまりに鮮明に映りすぎて心が休まらないからだった。

 

それを口にした瞬間に人々の視線は冷ややかに変わり、やがて作られる見えない壁に弾かれるようにして、清明は自然と森の境界へと寄り添っていった。

その日も彼は、木の根元に絡みつく影のような、虫とも獣ともつかない曖昧な輪郭の異形をじっと見つめていた。

 

「……またいるな」

 

小さく呟いたその時、枯れ葉を踏む微かな足音が静寂を破る。

顔を上げた清明の目に飛び込んできたのは、深い緑のなかで白昼夢のように浮き立つ、少し年上の白い気配だった。

異質な存在に清明はうっすらと目を細めて警戒したが、その白い気配は彼には目もくれず、ただ視線の先にある影へと、何でもないようにしゃがみ込んで手を伸ばした。

清明の息が止まる。

 

「……」

 

驚くべきことに異形は逃げ出すどころか、まるで懐くようにその指先へまとわりついて揺れた。

清明は思わず声を漏らす。

 

「……それ触れるのか」

 

言葉は返らないが、白い気配はただ愛おしむように異形の輪郭を指先で軽く撫でた。

清明はもう一度、問いを重ねる。

 

「それは、危なくないのか」

 

やはり返事はないものの、白い気配はただ不思議そうに首を傾げるだけだった。

 

意を決して立ち上がり、ゆっくりと距離を縮めると、異形は凪いだ水面のように落ち着きを取り戻していく。清明は少し眉をひそめた。

 

「……見えているのか」

 

それは自問でもあった。白い気配が異形を撫で続ける傍らで、清明はその隣にしゃがみ込み、堰を切ったように言葉を紡ぐ。

 

「私は見える」

「こういうものが、ずっと見える」

「普通は見えないらしい」

「だから皆、怖がる」

 

返るはずのない沈黙のなかで、それでも清明は言葉を止められなかった。

 

「貴方は怖くないのか?  私も、それも」

 

白い気配はただ、静かにその手を進めるだけだった。清明はその美しい横顔を見つめ、張り詰めていた息をそっと吐き出す。

 

「……そうか、怖くないのか」

 

確認するように呟く彼の前で、空気はどこまでも穏やかに澄んでいた。

 

それ以来、清明はその秘密の場所へ通うようになった。白い気配がいて、異形がいて、そして自分がいる。ただそれだけの、しかし確かな世界の営みだった。

 

「今日は少し見え方が違う」

「こいつ、また増えている」

「これは危なくないのか」

「……まぁいいか」

 

何も語らぬ白い気配の隣で言葉を投げかけ、術の痕跡を追う時間は、人里の違和感に削られていく清明にとって、唯一存在を否定されない揺り籠となっていった。

気づけば森の奥へと向かう足取りは増え、清明は少しずつ人間の理から離れていく。それでも、見えるものがそのままでいられるこの平穏のなかで、恐怖を感じることは一度もなかった。

 

いつしか森の時間は清明の日常となり、彼の足は自然と「こはく」のいる場所へと向かうようになっていた。こはくはいつも同じ木陰で、木漏れ日を浴びながら異形と戯れている。

薄い霧が木々の間に残り、葉の隙間から落ちる光がゆっくりと揺れる静かな日、清明の視線は異形ではなく、その隣にいる存在へと向けられていた。

 

「……このままずっと」

 

ぽつりと、祈るように呟く。

 

「あなたといられたらいいのに」

 

風が一度だけ木々を揺らした瞬間、こはくはわずかに動きを止め、感情の読めない瞳を伏せた。

清明はその長い沈黙をただ待った。

やがて、こはくは無言のまま立ち上がり、白い衣を霧のなかに揺らしながら森の奥へと歩き出す。清明は一瞬の躊躇ののち、引き寄せられるようにその後を追った。

 

木々の密度が引いた先で空気が一変し、踏み固められた地面と古びた石畳、そして厳かな木組みの鳥居が姿を現す。

現実の境界から浮き上がったような巨大な正門を見上げ、清明が鳥居をくぐり抜けた瞬間、森の匂いは消え去り、静謐な“人ならざるものの領域”が目の前に広がった。

整えられた石灯籠と清らかな水の流れ、その奥に佇む大いなる木造の屋敷に、清明は戸惑いを覚えながら呟く。

 

「……もしかして、ここに住んでいるのか?」

 

問いは宙に消えたが、ただの自然の精霊だと思っていた存在が人の営みに似た場所にいる事実は、彼にとって確信に近い驚きだった。清明はいつも通りのつかず離れずの距離を保ちながら、静かに歩むこはくの背中を追い続けた。それが、自身にとっても戻れぬ路になるとは知らずに。

 

屋敷の正門をくぐると、静寂のなかにピリついた気配が混じり、通路の先で腕を組んだ燃えるような赤い長髪の男が立ち塞がっていた。

清明はその威圧的な姿を見ても足を止めない。

 

「……おい」

 

男――獄露の低い声はこはくに向けられていたが、その鋭い刺すような視線は、明らかに連れてこられた異分子を捉えていた。

 

「どうして連れてきた。人間だぞ」

 

清明は焦ることもなく自然体に佇み、まっすぐ獄露の瞳を見据えて静かに口を開く。

 

「あなたは、この人の仲間か?」

 

獄露の眉が動くのを見逃さず、清明は一拍置いて、その本質を言い切った。

 

「……いや、違うな。人間ではない」

 

凍りついた空気のなかで、獄露が細めた目で睨みつける。

 

「……分かるのか」

 

「分かる」

 

視線を逸らさず、相手の“質”を見抜く清明の即答に、獄露は警戒とわずかな納得の混じった息を吐き出した。

 

「お前、普通じゃないな」

 

「よく言われる」

 

淡々とした返事の横で、こはくは何も言わず、ただこの屋敷の中心としての佇まいで静かに後ろに立っていた。

森の異形を見る時と同じ、恐怖も怯えもない清明の双眸に、獄露は小さく舌打ちをする。

 

「……面倒なのを連れてきやがったな」

 

清明は純粋な疑問を込めて、少しだけ首を傾けた。

 

「面倒?」

 

獄露は答えず、ただ中に入れるか否かの確認をこはくの視線に求める。

 

「これを中に入れるのか」

 

こはくは拒絶も肯定もせず、ただそこにいた。だが、それが沈黙の許容であることを理解した獄露は、苦々しく息を吐く。

 

「……勝手にしろ」

 

未だ解かれぬ警戒の視線のなかで、清明は静かに悟る。ここは決して容易く外の世界を受け入れる場所ではない。それでも今、自分はこはくの隣でその境界線を越えようとしていた。

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