番外編 獣化の術 清明の場合
少し静かになった、その時。
清明がふとこはくを見る。
嫌な予感。
閻魔はもう笑う準備をしている。
こはくは静かに清明を見る。
白い目。
穏やか。
そのまま数秒。
だが、何も起こらない。
転生後清明、待つ。
静寂。
やはり変化なし。
清明が瞬きをした。
「……変わらないな」
道満が少し眉を寄せる。
閻魔はこはくを見る。
こはくは静か。
変える気配がない。
清明はさらに聞いた。
「できないのか?」
こはくは答えない。
ただ静かに見ている。
沈黙のあと、閻魔がふっと笑った。
「あー、なるほどね」
全員の視線が向く。
閻魔は頬杖をついた。
「もう飽きちゃったのかも」
道満が吹き出しかける。
清明、止まる。
「……飽きた?」
閻魔は笑う。
「だってお前、反応分かりやすすぎるし」
「道満みたいに変化させがい無さそう」
「ふっ」
道満はちょっと笑った。
転生後清明は真面目に考え込んでいる。
「……そういう理由なのか?」
閻魔は肩を竦める。
「さぁ?でももう一個あるかもね」
こはくを見る。
静かな白。
それから清明へ視線を戻した。
「清明って、一番“人間らしい”のかも」
空気が少し静かになる。
清明が目を細めた。
「人間らしい」
閻魔は頷く。
「道満はもう半分こはくの獣みたいなもんじゃん」
「契約も深すぎるし」
「生き方も人外寄り」
「獣扱いをやめろ」
「でも清明は違う」
閻魔は転生後清明を見る。
「どれだけ重くても」
「どれだけ執着してても」
「好きだって言って追いかけて」
「触れたがって」
「一緒にいたがる」
「そういうの、すごく人間っぽい」
清明は静かに聞いている。
閻魔は少し笑った。
「だから変える必要ないのかもね」
「もう完成してる」
「“清明”って生き物として」
静かな沈黙。
転生後清明はしばらく考えていた。
それから小さく息を吐く。
「……そういうものか」
道満が横から低く言う。
「お前は十分珍獣だと思うがな」
転生後清明は真顔で返した。
「こはくがそう思わないなら問題ない」
「重い」
こはくは静かにそこにいる。
白いまま。
何も言わない。
だが転生後清明を見る目は、少しだけ柔らかかった。
閻魔がそれを見てにやりと笑う。
「ほら、やっぱそのままで気に入られてるんじゃん」
転生後清明、少しだけ嬉しそうだった。
道満だけが深いため息を吐いた。
その夜だった。
地獄にしては珍しく、空気が静かだった。
白い霧のような靄が薄く地を這い、遠くに黒い山脈が見える。
音も少ない。
こはくは一人で歩いていた。
その後ろを、転生後清明が追う。
二人きり。
言葉はない。
だが清明は不思議と落ち着かなかった。
こはくが静かすぎる時、時々こういう感覚になる。
触れれば消えてしまいそうで。
けれど追わずにはいられない。
「……こはく」
呼ぶ。
こはくが振り返る。
白い瞳。
静かな視線。
その瞬間。
ふわりと風が揺れた。
白い光。
術式。
清明は反応するより先に、自分の身体が変わっていく感覚を覚えた。
視界が高くなる。
重心が変わる。
長い白銀の鬣が風を流れた。
地を踏む音。
そこにいたのは、一頭の白馬だった。
巨大だった。
雪みたいに白い。
だが普通の馬ではない。
毛並みの端が淡く光り、影のように揺れている。
静かな神性。
長い脚。
金の瞳。
呼吸するたび、白い靄が漏れる。
清明は数度瞬きをした。
声は出ない。
だが意識ははっきりしている。
そして不思議と、恐怖は無かった。
こはくが術をかけたから。
それだけで納得してしまう。
こはくは静かに白馬の前へ来た。
白い指が鼻先へ触れる。
その瞬間。
胸の奥が熱くなる。
馬の身体なのに、感情だけはそのままだった。
こはくへ触れられると嬉しい。
近づかれると落ち着く。
そんな感覚が、隠しようもなく表へ出る。
白馬はゆっくり頭を下げた。
こはくの肩へ鼻先を寄せる。
甘えるみたいに。
こはくは静かにその首を撫でた。
長い指。
白馬は目を細める。
それから、ゆっくり膝を折った。
乗れるように。
迷いなく。
当然みたいに。
こはくがその背へ乗る。
驚くほど軽い。
だが同時に、胸の奥が満たされる。
乗せたかった。
どこまでも。
落とさないように。
傷つけないように。
自分の背に乗せて、遠くまで連れて行きたかった。
その願いが、馬の形になっているみたいだった。
白馬は静かに立ち上がる。
こはくを揺らさないよう慎重に。
それから歩き出した。
地獄の白い霧を裂いて進む。
音は少ない。
蹄の音だけ。
こはくは何も言わない。
ただ静かに背へ手を置いている。
それだけで十分だった。
白馬は走り出す。
速い。
風が流れる。
景色が遠ざかる。
だが背の重みだけは、ずっと近い。
離れない。
嬉しかった。
どこまでも行ける気がした。
地獄の果てでも。
輪廻の向こうでも。
この白を乗せたまま走れるなら、それでいいと思った。
しばらくして、白馬は崖のような場所で足を止めた。
遠くに淡い光が見える。
静かな世界。
こはくはその背の上で、白馬の鬣へそっと触れた。
白馬は小さく息を吐く。
心臓が苦しいほど鳴っていた。
人間の姿ではない。
言葉もない。
なのに、今の方がずっと本音に近い気がした。
こはくが静かに降りる。
その瞬間、白い光が揺れた。
術が解ける。
清明の姿へ戻る。
膝をついたまま、しばらく動けなかった。
呼吸が熱い。
胸の奥が痛い。
こはくを見上げる。
静かな白。
その姿を見て、清明は小さく笑った。
「……なるほど」
掠れた声。
「私は、こうなりたかったのか」
こはくは何も言わない。
だがその白い目は、静かに清明を見ていた。
拒絶は無い。
清明は目を伏せる。
それからそっと、こはくの手へ額を寄せた。
まるでまだ白馬のままみたいに。




