拙い文字
執務室をあとにした清明は、迷うことなくこはくの待つ場所へと一直線に向かった。
足取りに揺らぎはない。
一度「渡す」と決めた以上、それをそのまま実行に移す。それが清明という男のあり方だった。
こはくは、静寂の満ちる空間に佇んでいた。いつものように、ただそこに存在している。
言葉はなく、ただ静かな気配だけが漂う。
清明はその直前で足を止めた。
そして懐から、丁寧に折り畳まれた文を取り出す。
「こはく」
呼びかける声。こはくがゆっくりと視線を上げた。
清明はその手に、文を差し出す。
「恋文だ」
真面目そのものの声音。
そこには茶化すような冗談も、気恥ずかしさによる照れも存在しない。
ただ、事実を事実として差し出している。
こはくは差し出された紙を静かに見つめ、咎めることもなく受け取った。拒絶されない。
ただそれだけで、清明の中では「思いが届く段階」へと至っていた。
こはくの手によって、紙が開かれる。
そこに書かれているのは、人の用いる文字ではない。
人ならざるものが残した、太古の文字列。
人間の目には何の意味も成さない暗号のようなそれを、こはくは何の躊躇もなく、すっと視線で追っていく。
静謐な時間が流れる。
紙を保持する指先が微かに動き、視線がゆっくりと文字の配列をなぞっていく。
清明は無言のまま、その横顔を見つめていた。
こはくがこの文字を読めることは分かっていた。
思いが届くことも理解している。
けれど、それを“どのような感情で受け取るか”までは分からない。
その領域だけが、彼にとって唯一の未知だった。
やがて、こはくの視線が文から離れ、すっと上がった。
清明と目が合う。
その表情は相変わらず静かで、大きな変化はないように見えた。
けれど、ほんのわずかに。奇跡のようなほんのわずかな違いで、彼女の表情が柔らかく綻んでいた。
それは拒絶ではなかった。困惑のの色でもない。
包み込むような、淡く静かな受容。
だがそれは、清明が密かに期待していた“恋慕に対する答え”とは、根本から異なっていた。
もっと温かく、もっと圧倒的な優しさを孕んだ眼差し。
その一瞬で、清明は恐ろしいほど正確に理解してしまった。
これは、“伴侶に向けられる眼差し”などではないのだと。
幼き者が、覚えたての拙い文字で一生懸命に書き連ねた手紙を、大人が微笑みながら受け取る時の顔。
まだ形すら定まらない幼子が、歪な筆跡のまま嬉しそうに手渡してきた紙切れを、ただ愛おしく受け止める。
そういうものに向けられる、静かで慈愛に満ちた優しさ。
清明の中で、その残酷なまでの理解だけが、鮮明な形をとって胸に突き刺さった。
しばらくの間、言葉が出てこなかった。
こはくは何も言わない。ただ文を手に持ったまま、静かに清明を見つめ続けている。
その眼差しが否定ではないことは分かっていた。
拒絶でないことも理解できる。
だが同時に、その視線が自分と“同じ高さ”にないことだけは、嫌というほど理解できてしまう。
清明はゆっくりと、胸の奥の空気を吐き出した。
そして、どこまでも静かな声で言った。
「……あなたにとって私は、まだ子どものままなのだな」
そこには責めるような響きも、悲痛な怒りもなかった。
ただ理解したという事実を、淡々と静かな言葉へと変換しただけの声だった。
こはくは何も答えない。
ただ、変わらぬ静けさでそこに佇んでいる。
その沈黙が、問いに対する肯定のようでもあり、あるいは否定すらしない優しさのようでもあり、どちらとも取れないまま空間に落ちていく。
清明はその沈黙を、丸ごと受け止めた。
そうして、静かにその目を伏せた。
◇
あなたにとって私は、まだ幼いものなのだろう。
私はそれを理解した。
伴侶として並び立つには、私はまだ遠いのかもしれない。
あなたの隣に立つには、あまりにも未熟なのだろう。
それでも、私は諦めたりしない。
あなたを好きだと思う気持ちは、何も変わらないからだ。
人の感情は移ろうものだと、私は知っている。
輪廻のたびに形を変え、別の結末へ向かう。
それでも今世で、私は確かにあなたを選んでいる。
あなたに触れたい。
あなたの隣にいたい。
その願いを、私は恥じない。
たとえ今はまだ、あなたにとって幼いものだとしても。
いつかあなたが振り返った時、隣に立てる者でありたい。
だから私は、今日もあなたを想う。




