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*俺じゃないと駄目

地獄を包む空気が、静かに、けれど確実に“重い方向”へと傾いていた。

 

それは分かりやすい外象の異変というよりも、深海の水底で発生した微細なうねりのような波だった。目には見えないものの、皮膚に直接伝わってくる不穏な揺らぎ。

清明はその異状を敏感に察知し、その場にピタリと足を止めた。

 

「……来ているな」

 

短く呟き、事態を把握する。そして躊躇うことなく、その揺らぎの最深部へと足を進めた。

 

そこに佇んでいたのは、他でもないこはくだった。

だが、そこにいたのは“いつものこはく”ではなかった。周囲の空間そのものが歪みを孕み、静かに、けれどどこまでも深く沈み込んでいくような禍々しい力の濁流が渦巻いている。

清明は意を決して、一歩間合いを詰めた。

 

「……」

 

一瞥した瞬間に、理解する。

 

(深い)

 

普段の乱れとは、あからさまに質が異なっていた。

清明の氷のような表情に大きな変化はない。ただ静かな動作で、そこへ手を伸ばした。

 

「伴侶として」

 

自分自身に言い含めるように、静かに呟く。

その異形に触れることに、一欠片の迷いもなかった。今の己に与えられた“役割”が何であるかを、彼はすでに頭の中で完璧に整理し終えていたからだ。

 

清明の指先が、こはくの存在へと届こうとしたまさにその瞬間。

張りつめた空気を引き裂くように、軽薄でありながら圧倒的な重厚さを孕んだ気配が割り込んできた。

 

「──あー」

 

声調こそ軽い。だが、そこに存在する質量が桁違いだった。

 

「気配がしたから来たけど……これは中々だね」

 

地獄の王、閻魔だった。

清明の手が、空中で静止する。閻魔は場の状況を瞬時に見抜き、一切の猶予を与えない断定を下した。

 

「お前じゃ駄目、俺じゃないと」

 

一歩前へと足を踏み出す。そして迷いのない声で言った。

 

「ほら、どいて」

 

清明は微動だにしない。

 

「理由を」

 

閻魔は鼻で短く笑ってみせた。

 

「簡単だよ、深さが違う」

 

そこに説明や弁明の色彩はなかった。ただ抗いようのない事実としての断定。閻魔は清明の横を通り抜け、そのままこはくの真正面へと立ちはだかった。

 

閻魔がその身に触れた瞬間、場の空気が激変した。

それは抑え込むような抑圧ではなく、荒れ狂う奔流をあるべき水路へ“導く”ような絶対的な導引。

こはくの体内に渦巻く力が、明確にその存在へと反応を示した。清明が触れようとした時とは比べものにならない、激しい熱を帯びた揺らぎ。

 

「……っ、……」

 

激しく呼吸が乱れる。こはくの口から漏れる声は細く途切れ、まともな言葉を結ばない。

 

「は……、……っ」

 

閻魔はその姿から一切の目を逸らさなかった。双眸の奥にある視線は微塵もブレない。

まるで目に見えぬ“力の脈動そのもの”を注視しているかのように、どこまでも静かに、けれど完璧に調律を合わせていく。こはくの華奢な体が、耐えかねたように小さく震えた。

そしてその指先が、縋るようにわずかに閻魔の着物の衣へと触れる。

 

「……ぅ、……っ」

 

己の中の熱を逃がす場所を求めるように、あるいは崩れ落ちる体を支えるように。

閻魔はその一挙一動を逃さず追うように、さらにごく僅かだけ距離を詰めた。

 

「そこだね」

 

低く、けれど絶対的な通る声。

導くための言葉でありながら、決して強圧的な支配ではない。こはくの胸の上下がさらに激しさを増し、呼吸が乱れていく。

 

「……っ、……」

 

そのまま、二人の視線が交錯した。

閻魔の深淵のような目と、こはくの熱を帯んだ赤い瞳の視線が、逃れようもなく絡み合う。

 

清明はそのすぐ傍らで、ただ事の一部始終を凝視していた。

頭では理解している。

その理屈も、構造も知り尽くしている。

閻魔の口にした「深さが違う」という言葉の真意すらも。

 

それにもかかわらず、いま目の前で繰り広げられている圧倒的な光景は、清明の内で完璧に組み立てられていた理論や整理を、静かに、けれど容赦なく狂わせていった。

 

(……違う)

 

自分が触れた時の反応とは、根底から違っていた。

波立つ力の強さも、引き込まれていく感情の密度も。そして何より、彼らの意識が“届いている場所の深さ”が。

こはくの指先が、力任せに閻魔の袖を固く掴み取る。

 

「……っ、はぁ……っ」

 

閻魔はそのすがりつく手を振り払うこともなく、そのまま静かにその存在を追う。

 

「大丈夫」

 

短く投げかけられた言葉。しかしそれは甘い慰めなどではなく、乱れた調律を正すための冷徹な調整の言葉だった。こはくの荒い呼吸が、微かな波となりながら少しずつ凪いでいく。

 

それでも、荒れ狂った乱れの後引く余韻だけが、重く部屋の中に残り続けていた。

清明は一歩たりとも動くことができなかった。

ただ、目の前の現象を見つめ続ける。二人の間に割って入る隙間など、この世界の物理的な法則の中にすら存在しないかのように感じられた。

 

(私は何をしていた)

 

答えの出ない問いが、頭の中を駆け巡る。

解を見出せぬまま、現実の刻限だけが淡々と過ぎ去っていく。

 

やがて、閻魔がそっと手を離した。

緊張の糸が切れ、場の空気が元の密度へと戻っていく。けれど、完全な静寂が訪れたわけではない。こはくは未だ、残熱を払うように浅い息を繰り返していた。

 

「……はぁ、……」

 

途切れ途切れの、密やかな吐息。

閻魔はその様子を一度だけ見届けると、肩の力を抜いて短く息を吐き出した。

 

「はい終了」

 

何事もなかったかのような、あっさりとした声。

そしてようやく、傍らに立ち尽くす清明の方へと視線を巡らせた。

 

「見てたね」

 

清明は応じない。閻魔は意に介さず、おどけて軽く肩をすくめてみせた。

 

「まあいいけど。これが差」

 

落ちてきた言葉には、解説の色彩も、煽るような挑発も含まれていなかった。ただ、動かしようのない冷徹な事実としてそこに置かれただけだった。

清明はその現実を、どこまでも静かに、正面から受け止めた。

 

こはくは未だ呼吸を整えている。閻魔のすぐ側で。

決して、自分の一歩隣などではなく。

その圧倒的な「位置の差」だけが、清明の網膜に焼き付いて離れなかった。

清明はようやく、胸の底から静かに息を吐き出す。

 

「……そうか」

 

呟きは、それだけだった。

地獄を支配していた重苦しい空気が、緩やかに元の静けさへと収束していく。ほんの数分前の荒々しい乱れの残響だけが、薄い膜のように空間へ漂っていた。

閻魔はすでに、いつもの軽薄な調子を取り戻している。

 

こはくの側から少し距離を取り、疲れを払うように軽く肩を回した。

 

「いやー、なかなかだったね」

 

何事もなかったかのように振る舞う声。こはくは未だ、微かに息を整えている。

 

「……」

 

言葉にならない吐息だけが、静かに落ちては消えた。

清明はその場に立ち尽くしたままだった。

動けないのではない。ただ、次に踏み出すための「理由」そのものを、一瞬だけ見失っていたのだ。

 

(……違う)

 

先ほど目の当たりにした光景が、頭から離れようとしない。

閻魔が触れた瞬間に見せた絶大な変化。こはくが見せた、底知れぬ反応の深さ。縋りつくように伸ばされた指先と、それを受け止め、追うように重ねられた閻魔の眼光。

 

あれこそが、関係性の完成形なのだと思い知らされる。

少なくとも「すでに成立している側の距離感」が、そこには厳然として存在していた。

清明は静かに、己の行いを振り返る。

 

自分はいつだって、己の都合で先に手を伸ばしてきた。

言葉を掛け、肌に触れ、自分の存在を確かめるようにして。

そして、こはくから返ってくるのはいつも「許容」だけだった。

拒絶されないという事実を、勝手に肯定や進展だと受け取っていたのだ。それを自分は「思いが届いている」と勘違いしていた。

 

だが――

先ほどの光景には、はっきりと「相手を待つ側」の存在があった。

手を伸ばされるべき存在が、揺るぎない確信とともにそこに立っていたのだ。

 

(私はまだそこにいない)

 

脳裏に、不意に地獄の部下たちの言葉が重なって響く。

『伴侶』

ただの軽い噂話や、冗談めいた呼び名だと思っていた。

だが今なら、彼らが口にしていた距離感の本当の意味が理解できる。

あれは侮辱でも誇張でもなく、第三者の目から見て「すでに完成している関係の形」そのものだったのだと。

 

清明はゆっくりと視線を足元へと落とした。

 

(器が違う)

 

そんな言葉が脳裏を掠める。

けれどそこに、諦めの色は一切なかった。己を卑下する自己評価でもない。ただ、受け止めるべき冷徹な事実としての認識。

清明は静かに、深々と息を吐き出した。

 

「……それでもいい」

 

誰の耳にも届かないほど小さな、けれど芯のある呟き。

すでに出会ってしまったのだ。その事実だけは、この世のどんな理であっても変えようがない。

 

こはくがどれほど果てしない存在であろうと、その隣に誰が立っていようと。自分が彼女に出会い、惹かれてしまったという事実だけは、絶対に動かない。

清明はゆっくりと顔を上げた。

 

視線の先には、こはくがいる。まだ、そこに佇んでいる。

まだ、自分の手が届く距離に存在している。

 

(私は、諦めたりしない)

(出会ってしまった以上)

(もう、どうにもならない)

 

静かな動作で、清明は再び足を踏み出した。

その一歩はいつもと変わらず完璧に整っており、そこには一切の迷いも影を落としてはいない。

 

ただ、ひとつだけ過去の自分と違っていたのは――

もう二度と、「すでに手が届いたと思い込んでいた幻想の場所」には立っていない、ということだけだった。

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