主と側室
道満の所在する詰所は、相変わらず静まり返っていた。
整然と積まれた書類、整えられた術式、無駄のない気配。そこへ清明は何の前触れもなく入室する。
「一つ聞きたい」
変わらない唐突な問いかけ。道満は書類から顔も上げずに応じた。
「今度は何だ」
清明は一拍の間を置き、狂いのない大真面みな声音で言った。
「側室とはどう思う」
――完全なる沈黙。
道満を動かしていた筆がぴたりと止まる。そのまま固まり、ゆっくりと顔だけが持ち上げられた。
「……は?」
絞り出された一音が、詰所の空気に虚しく響く。純粋な困惑以外の何物でもない顔だ。清明は微動だにせず佇んでいた。
「側室という概念があると聞いた」
「こはくに対してそのような位置づけが存在し得るのか確認したい」
道満の眉根が、鬱陶しそうに跳ね上がる。
「待て、どこからその話が出てきた」
清明は隠すことなく、ありのままを答えた。
「閻魔だ」
その名を聞いた瞬間、道満は吐き捨てるように深く息を吐き出した。
「……あいつか」
机に肘をつき、疲弊しきった動作で額を押さえる。重苦しい数秒の沈黙を経て、吐き出された声には明らかな疲れが滲んでいた。
「お前、真面目に受け取るな」
清明は首をかすかに傾けてみせる。
「事実確認だ」
道満はもう一度、苦々しくため息をついた。
「まずな、側室というのは人間側の制度だ」
「それをそのままあの存在に当てはめるのが間違いだ」
清明は反論せず、無言で耳を傾けている。道満は言葉を重ねた。
「そもそもだ。相手は神だ、人間とは違う」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がわずかに質を変えた。清明の視線が微かに下がる。道満は注意を促すように机を軽く叩いた。
「お前が今気にしてるのは“数の問題”だろう」
「だがな、その発想自体がすでに人間側の発想だ」
清明は一拍置くと、素直に問いを重ねた。
「では、正しい距離とは」
道満は即答せず、思考を巡らせる間を取ってから、慎重に言葉を選び出した。
「正しいも何もない」
「相手がそういう存在なら、そのまま受け取るしかない」
清明の瞳が鋭く細められる。
「つまり」
道満は面倒そうに頭を振った。
「つまりだ」
「“側室かどうか”を気にする段階じゃない」
「そもそも同じ土俵の話じゃない」
それは、疑いようのない静かな断言だった。清明はその事実を深く受け止めるように数秒間沈黙し、淡々と口を開いた。
「理解した」
道満はわずかに肩の力を抜き、安堵の息を漏らす。
「……分かってくれればいい」
だが、安堵も束の間。清明はそのまま真顔で言葉を繋げた。
「では私はこはくと二人でいることに問題はない」
道満の視線が、再び凍りつく。
「お前」
「どこに戻した今の話」
清明の表情には、微塵の冗談も浮かんではいない。
「概念整理だ」
道満は本日何度目になるか分からない深い溜め息を吐き出した。それは完全に匙を投げた者の吐息だった。
「……お前は本当に」
呆れ果てて言葉を呑み込み、道満は不機嫌そうに視線を逸らした。
「まあいい。好きにしろ」
「ただしだ」
清明がまっすぐ顔を上げる。道満は指先を軽く立てて釘を刺した。
「それを“枠で考えるな”」
「相手はそういう枠の外にいる存在だ」
清明は深く、静かに頷いた。
「了解した」
その返答だけは、気味が悪いくらい素直だった。
道満は呆れたように再び机に向かい、書類へと意識を戻す。だが、去りゆく背中に向けて小さく吐き捨てた。
「……地獄の王は余計なことしかしないな」
清明はその言葉を拾いながらも、何も返さなかった。ただ彼の中に、一つだけ確かな理解が刻み込まれる。
側室だの優先順位だのという枠組み以前に、あの存在そのものに向き合うべきなのだと。
清明は静かな動作で立ち上がった。
「では戻る」
道満は振り返りもせず、追い払うように手を振ってみせる。
「勝手にしろ」
パタンと静かに扉が閉まる音だけが残された。
何事もなかったかのように、地獄の冷たい空気は流れていく。




