伴侶と側室
地獄の詰所は、今日も相変わらずの賑やかさに包まれていた。
とはいえ、その騒がしさは殺伐とした戦場の喧騒などではなく、滞りなく業務をこなしながら交わされる、どこにでもある軽口の応酬だ。
「今日、閻魔様機嫌いいな」
「だな。あれ絶対こはく様いるだろ」
「伴侶来てると分かりやすいよな、あの人」
「わかる。空気軽いし」
悪気のない言葉が、日常の景色として当たり前のように流れていく。
閻魔とこはくの間にある距離感は、この地獄においては既に疑う余地もない「既知の事実」として定着していた。ゆえに誰も深入りはせず、噂話の範疇として軽い言葉で済ませてしまうのだ。
「伴侶って言い方、もう定着してるよな」
「正式名称みたいなもんだろ」
そんな笑い混じりの雑談が続くすぐ後ろに、清明が静かに立っていることに気づく者は誰一人としていなかった。
清明の目的は、単に滞っていた書類を受け取りに来ただけだった。
ただそれだけの、他愛もない公務。しかし、すれ違いざまに耳を撃った一つの単語だけが、妙な刺となって彼の意識に引っかかる。
――伴侶。
清明は一拍だけ思考を止め、静寂の中で淡々と口を開いた。
「伴侶とは何だ」
一瞬で場から音が消え去り、空気が凍りつく。背後にいた存在に気づいた部下たちが、弾かれたように一斉に振り返った。
「……え?」
「えっと……清明様?」
事態を察した一人が慌てて姿勢を正す。清明は寸分も体勢を崩さぬまま、寸分の狂いもない声調で繰り返した。
「伴侶とは何だ」
そこに威圧の気配はない。しかし、逃げ道をすべて塞ぐような絶対的な圧迫感だけが存在していた。部下は瞬時に悟った。
(これ、ちゃんと説明しないといけないやつだ)
詰所の中で一番若い獄卒が、おそるおそる声を開く。
「えっと……その」
「閻魔様とこはく様の距離感がですね」
清明は身じろぎ一つせず、ただその言葉を無機質に拾い上げていく。部下は慎重に言葉を選びながら、続きを紡いだ。
「その……かなり近くてですね」
「業務上というより、関係性として」
「我々の間では……伴侶みたいな距離だと認識されていて」
「それで、そう呼ばれているというか……定着してしまっているというか……」
弁明を重ねるごとに、語尾は完全に萎んで消えかけていく。清明はわずかに視線を落とした。
脳内で淡々と情報を整理するための静寂。長くも短くもない間のあと、彼は静かに一言だけを返した。
「そうか」
それだけだった。
怒りの色も、否定の気配も、追い詰めるような問い返しもない。ただ「そうした分類が存在する」という事実だけを無感情に受け取っただけの返答。その淡白さが、逆に部下たちの不安を掻き立てる。
(え、これ終わり?)
(逆に怖いんだけど)
清明は目的の書類を淡々と受け取ると、そのまま淀みない動作で踵を返した。
去っていく背中はいつも通りの静けさを纏っていたが、その足取りだけがほんのわずかに、思考の澱を噛み締めるような速度へと変化していた。
清明はそのまま、何の迷いもなく閻魔の執務室へと向かった。
廊下に満ちる地獄特有の気配を通り抜けながらも、彼の中には処理しきれない言葉が一つだけ、澱のように残っていた。
――伴侶。
その概念の真意を完璧に掴みきれたわけではない。ただ、周囲が勝手に都合よく使っているレッテルに過ぎないのだということだけは理解できた。
清明は扉の前で立ち止まることすらせず、そのまま執務室の中へと足を踏み入れた。
「一つ聞きたい」
挨拶すらすっ飛ばした開口一番だった。
閻魔は机に肘をついた姿勢のまま、緩やかに顔を上げた。
「んー、なに?」
相変わらずの軽い声。清明はその視線を真っ正面から受け止める。
「部下たちが、こはくのことを伴侶と呼んでいた」
その言葉が落ちた瞬間、閻魔の瞳の奥が、愉悦に歪むように少しだけ細められた。
「あ、知っちゃったんだ」
清明は微動だにしない。
「知っていたのか?」
間髪を容れぬ追及。閻魔が一拍置いてから、事もなげにあっさりと頷いた。
「うん」
そして、悪びれる色すら見せずに言葉を継ぐ。
「悪い気はしないよね」
その言い方は、紛れもなく仕組まれたものだった。
清明は一瞬だけ沈黙を挟む。怒りや困惑ではなく、純粋に情報として咀嚼するための僅かな間。そして、静かに告げた。
「そうか」
言葉はそれだけだった。閻魔はその淡々とした反応を前にして、さらに面白がって口元を綻ばせる。
「素直だねぇ」
清明は一切乗らない。ただ、確認すべき残りの視線を向ける。
「その呼び方に意味はあるのか」
閻魔は椅子をギシと揺らしながら、おどけて肩をすくめた。
「意味はないよ」
「ただの距離感の指標」
「わかりやすいからそうしてるだけ」
清明は短く息を吐き出した。納得したというよりは、頭の中で項目ごとに「分類した」という仕草に近い。閻魔はその一連の無機質な動作を観察しながら、わざとらしく笑みを深めていく。
「でもさ、お前結構気にするタイプだよね」
清明の返答は即座には返らない。微かな無音が落ちる。
「事実確認をしているだけだ」
閻魔はその強がり混じりの言葉を聞くと、心底可笑しそうに目を細め、机に頬杖をついた。
「ふーん」
そして、底意地の悪い笑みを浮かべたまま、軽薄に言葉を滑らせる。
「じゃあ確認できたならいいじゃん」
「こはくはこはくだし」
「伴侶って呼ばれてても別に困らないでしょ」
清明は一度だけ瞬きを挟むと、変わらぬトーンで言った。
「そうか」
閻魔はその素直すぎる返答に、満足しきった様子で笑う。すべてを分かった上で、意図的に静水へ石を投げ込むような顔だった。
「うん、そういうこと」
執務室の中には再び、いつもの弛緩した地獄の空気が戻っていく。
ただ一人、清明だけが「重なり合った情報」を胸に抱えたまま、佇んでいた。閻魔は机の上で組み直した指に顎を乗せ、わざとらしく首を傾げてみせる。
「でさ」
声調こそ軽いままだったが、その瞳の奥だけが愉悦で歪んでいた。
「お前はさ、第何側室くらいになれると思う?」
清明の動きが、ほんの一瞬だけ完璧に停止した。
静止したまま、視線だけが一直線に閻魔の顔へと据えられる。
「……側室?」
絞り出された声はどこまでも静かだった。怒りでも動揺でもない、ただ未知の単語に対する「定義の確認」。閻魔はその真面目すぎる反応が面白くてたまらないといった風に笑みを強めた。
「そうそう」
「ほら、こはく人気あるじゃん?」
「周りに勝手に寄ってくるやつ多いし」
「その中でお前はどこかなって」
あえて煽るように軽く言い捨てる。清明はしばらく無言を貫いたあと、狂いのない真面目な声調で言い放った。
「私は、こはくと二人きりがいいのだが」
迷いの欠片すらない断言。
閻魔はその瞬間、ほんのわずかに驚きで目を丸くしたものの――次の瞬間には盛大に吹き出していた。
「あーそれ、みんなそう言うやつ」
清明の視線が、かすかに揺らぐ。
「みんな?」
閻魔は机に頬杖をつき直し、だるそうに言葉を繋いだ。
「そう」
「薬屋も似たようなこと言ってたし」
「世話役も整力室も、護衛も」
「最終的にみんな同じ結論になるんだよね」
清明は一度だけ瞬きをし、脳内で情報を静かに並べ替える沈黙を作った。
「……そうか」
落ちてきた短い返答。閻魔はその「飲み込んで処理する速度」の早さに感心しながら、笑みを一段と深めた。
「でさ、現実的な話すると」
「お前がどう思ってても、あの人の周りは基本ああなる」
清明が顔を上げる。
「理由は」
閻魔は無責任に肩をすくめてみせた。
「さあ?本人がそういう存在だからじゃない?」
投げやりな口調ではあったが、その裏にある現実は重かった。清明の瞳が鋭く細められる。
「私は変わらない」
一切の猶予もない即答。閻魔はその揺らぎなさに、楽しげな笑声を漏らした。
「いいねぇその感じ」
「でもさ」
一拍挟み、閻魔は静かに棘を突き刺した。
「それ言ってるやつ、だいたい最後まで“二人きり”にはなれてないよ」
冷徹な事実の示唆。清明はそこで初めて、ごくわずかな沈黙を落とした。
だが、彼という軸が崩れることはない。
「そうか」
言葉はそれだけで十分だった。閻魔は机を指先で軽く叩いて笑う。
「うん、それ」
「その反応が一番現実的」
清明は視線を落とした。何かを突っぱねるでもなく、甘受するでもない。
ただ受け取った事実を、あるべき場所へと置く作業。そして静かに紡ぐ。
「それでもいい」
閻魔はその一言の重みに気づくと、感心したように細めた瞳を向けた。
「へぇ強いねぇ、お前」
清明はもう一度だけ視線を上げ、閻魔を見据えた。
「私は変わらない」
繰り返された同じ言葉。だがそこには先ほどと異なり、揺るぎない「選択」の重みが乗っていた。閻魔はそれを見届けると、満足そうに口元を歪めた。
「じゃあ好きにやりなよ」
軽い声が執務室に響く。
その舞台裏で、地獄という巨大な機構はいつも通りの現実を刻み続けていた。
冷たく乾いた静寂を纏う廊下を、清明は迷いのない足取りで歩いていく。規則的な足音の中に、ほんの僅かだけ重い思考の余韻が混ざり込んでいた。
(側室)
頭の片隅に引っかかったまま離れない、不快な単語。
言葉の意味自体は理解できた。だが、到底納得できるものではない。ゆえに導き出される結論は、いつも通り単純明快だった。
「確認する」




