短期派遣終了
執務室を包む空気は、いつもと変わらず淡々と静まり返っていた。
だが、「短期派遣延長不可」という無機質な一文が告げられた瞬間、その場に居合わせた誰もが、ほんの一瞬だけ静かな終わりを共有した。
獄露は山積みの書類から視線すら上げず、淡々と判を押し続けながら言った。
「延長は却下だ」
一切の情を排した、迷いのない言葉だった。
清明はその言葉の響きを、数拍の間のあとに静かに受け止める。
「……そうか」
そこに驚きの色はなかった。だからといって、心からの納得でもない。ただ、決定された抗えない事実として、頭の中で分類しただけの淡白な反応だった。
獄露の態度は、これ以上の議論も交渉の余地もないことを明確に示していた。清明は一度だけ手元へ視線を落とすと、静かに、そして深く頭を下げた。
「了解した」
屋敷を去る直前、清明は廊下のただ中で一度だけ足を止めた。
目的地はとっくに決まっている。そこへ向かう足取りだけが、いつもよりほんのわずかに重く、遅かった。
こはくの佇む場所。
その扉を開くと、いつもと変わらぬ姿でこはくはそこにいた。まるで最初からそこに散っていた影のように、静かに佇んでいる。
清明はしばらく言葉を発することもなく、ただその姿をその目に焼き付けるように見つめていた。それから、意を決したようにゆっくりと歩み寄る。
じわりと距離が詰まっていく。いつも立ち止まる境界線よりも、ほんの少しだけ近い場所へ。清明は一度深く息を吐き出すと、静かに口を開いた。
「地獄へ戻る」
こはくは何も答えない。返ってこない静寂を肯定と受け取るように、清明は言葉を繋ぐ。
「しばらくは来られない」
落ちてきた一瞬の間。それでもこはくは身じろぎ一つしない。
清明はその絶対的な沈黙を受け止めるように、緩やかな動作で手を伸ばした。伸ばされた指先が、こはくの着物の袖にそっと触れる。いつもの触れ合いよりも、心持ち長く留まる熱。離すことを惜しむように、清明はさらにわずかだけ距離を詰めた。
「……離れる前に」
言葉が途中で掠れ、途切れる。
清明は意を極するように、静かに続けた。
「確認しておきたい」
こはくは何も言わず、ただそこにいる。その沈黙を静かな許しとして、清明は壊れ物を扱うようにそっとその手を取った。
強く縛りつけるような力ではない。ただ相手の存在を指先で確かめるためだけの繊細な動き。その指先が、微かに震えていた。
「ここにいる」
自分自身に言い聞かせるような、掠れた小さな呟き。
次の瞬間、こはくの手を包み込む指先に、ほんの少しだけ強く力が込められた。
「次に来ても、またここにいてくれ」
やはり返答はない。それでも清明は、その手を離そうとはしなかった。落ちてきた静寂の中で、彼はもう一歩だけ深く足を踏み込む。間合いは限りなく近いが、境界線を踏み越えて押しつけるような真似はしない。そのギリギリの踏みとどまりで、清明は動きを止めた。
「伴侶としての形は、まだ遠い」
落ちてきたのは、どこまでも静かな声だった。
「だが、必ず辿り着く」
迷いの欠片もなく言い切る。
その宣言とともに、彼は一瞬だけ強くその手を握りしめた。それから名残を惜しむように、熱の残像だけを残してゆっくりと指を解いていく。
「また来る」
それだけを告げると、清明は躊躇なく背を向けた。
もう二度と、振り返ることはしなかった。
◇
地獄の執務室へ戻ったとき、閻魔はいつものように机に肘をついて待っていた。
「おかえり」
いつも通りの軽い声。清明は深く頭を下げ、静かに応じる。
「戻った」
閻魔は手の中で弄んでいた筆をくるりと回しながら、興味深そうに尋ねた。
「どうだった?」
清明は思考を整理するように少しだけ間を置いたあと、真面目な顔で答えた。
「伴侶とするには、道が長い。思うように進まない」
言葉を選び直すように言い添える。閻魔はくすりと小さく笑った。
「そりゃそうだろ」
清明は一切の怯みもなく言葉を繋ぐ。
「だが、諦める理由はない」
その一言に、筆を動かしていた閻魔の手が微かに止まった。
「……まだやるの?」
「当然だ」
間髪を容れぬ即答。閻魔は肩を竦め、あきれたように短く息を吐き出した。
「ほんと、変わったね」
清明は静かに目を細める。
「そうか」
「うん」
閻魔は再び手元の書類へと視線を落としながら、どこか愉しげに言葉を続けた。
「生きてた頃より、ずっと一直線」
清明は何も言わず、沈黙を守る。閻魔は自嘲気味に肩を揺らした。
「でもさ」
「結果的にはいい経験だったかもね」
清明はほんの少しだけ息を整える間を置いた。
「まだ途中だ」
閻魔はクスクスと笑う。
「知ってるよ」
その日から再び、地獄の永遠のような時間が刻まれ始める。
与えられた役目に変わりはなく、こなすべき仕事もまた以前と変わらない。
ただ一つだけ、生前とは異なる明瞭なものが彼の中にあった。
清明の内に芽生えた「次に必ず会う」という確固たる確信だけが、胸の奥で静かに、けれど消えることなく灯り続けていた。
◇
清明が去ったあとの執務室の空気は、妙に軽やかだった。
積み上げられた書類の山は相変わらずであり、消化すべき仕事量が減ったわけでもない。それなのに、胸のつかえが取れたかのような清々しい静寂が室内を満たしている。
その中心に座る獄露は、いつも通り無表情のまま、淡々と書類に判を押し続けていた。
ただ一つだけ普段と違う点があるとすれば、その処理速度が僅かに、けれど確実に早くなっていることだった。
「……今日は機嫌いいんですか?」
部下の一人が、恐る恐る静寂を破って尋ねた。
獄露は顔も上げず、一定のテンポで判を突きながら答える。
「通常通りだ」
躊躇のない即答。だが、その完璧すぎる即答こそが、逆に「通常ではない」という事実を物語っていた。別の部下が声を潜めてヒソヒソと囁き合う。
「いやでも……なんか、軽くないですか?」
「空気が」
「……軽い」
その単語が落ちた瞬間、周囲の空気が一瞬だけ固まった。
そして、一人の部下がぽつりと真理を口にした。
「清明様、いなくなりましたもんね」
その瞬間、室内の空気が静かに強張った。
獄露の振るっていた筆が、ほんの一瞬だけピタリと止まる。そして何事もなかったかのように、再び滑らかな軌道を描き始めた。
だが、その一瞬の不自然な間を見逃す者などいなかった。部下たちは互いに目配せを交わし合う。
(あ、これだ)
(今のだ)
獄露は一切の釈明もしない。しかし、場を支配する空気だけは確実に変質していた。
「……いや、でもさ」
別の部下が、探るような慎重さで言葉を継ぐ。
「もう一人いたじゃないですか」
その指摘に、またしても場の空気が不自然に傾く。
「道満も、今は呼ばれてないって聞きました」
獄露の筆は、今度は止まらなかった。ただ、紙を走らせる力加減がわずかに強くなる。
「影の牢に戻ってるらしいですよね」
「つまり……」
一人が口を開きかけ、寸前で言葉を呑み込んだ。言って良いものか躊躇う顔。しかし、別の部下が耐えかねたように小さく呟いてしまった。
「……厄介なの、まとめていなくなった感じですね」
完全なる沈黙。
不躾な表現ではあったが、場にいる全員がその言葉の真実性を疑わなかった。
ここ最近の獄露の執務環境は、劇的な改善をみせていたのだ。
上がってくる報告は余計な情を含まず簡潔。無駄な横槍も入らず、意図の分からない不毛な相談も一切持ち込まれない。
何より――“主を巡る理不尽な面倒事”が丸ごと減っていた。
静かだった。不気味なほどに。
獄露はようやく顔を上げ、部下たちの方へと氷のような視線を向けた。
部下たちは一斉に気まずそうに目を逸らす。
「……仕事に戻れ」
落ちてきたのは、短く淡々とした命令だった。
誰もが気づいていた。獄露は決して怒っていない。
それどころか――ほんのわずかに、業務効率が向上しているという現実に。
数日後。
静まり返った執務室で、別の部下がぽつりと呟いた。
「でもちょっとだけ……静かすぎません?」
その言葉を否定できる者は、そこには誰もいなかった。




