外界の神と清明
屋敷の外縁で課されていた、形式ばかりの軽い警戒任務を終えた直後のことだった。
清明は敏感にこはくの気配を捉えていた。正確には――“こはくに対して向けられている、異質な気配”を。
最初は、肌を撫でる程度の微かな違和感に過ぎなかった。しかし、時間が経つにつれてそれが明確な「意図を孕んだ視線」へと形を変えていく。清明は護衛としての本能のまま、滑らかな足取りでその気配の源流へと回り込んだ。
だが、そこに佇んでいたのは人間ではなかった。
人型を模してはいるものの、纏う空気の質が明らかに異なる。気配そのものが途方もなく古い。この屋敷の住人でもなければ、地獄の亡者や鬼の類でもない。
外界の神格――清明はその存在の異様さを一瞬で察知した。
「……主に用か」
向けられた問いかけに、相手は清明を見下ろし、嘲るように薄く笑った。
「護衛か」
投げかけられた声は、驚くほど軽い。
だが、主との距離があまりに近すぎた。清明は間髪入れずに一歩踏み出し、境界線を引くように立ちはだかる。
「距離を取れ」
「面白いことを言う」
神格は楽しげに笑いを深めると、そのまま清明の肩越しへと視線を滑らせた。その先に佇んでいたのは、こはくだった。
清明の背筋を、一筋の冷たい影が駆け抜ける。
「知っている顔」ではない。
「慣れ親しんだ気配」でもない。
しかしその神格は、まるでずっと昔からそこに在るものを確かめるかのような、至極当然の眼差しでこはくを見つめていた。
「久しいな」
落ちてきたその一言に、清明の思考が一瞬だけ停滞する。
――久しい、だと?
こはくは口を開かない。拒絶の仕草も見せなければ、否定の言葉も発しない。
ただそこに静かに佇んでいる。その絶対的な静寂こそが、かえって目の前の状況を歪に浮き彫りにさせていた。清明の胸の奥で、何かが底へと重く落ちていく。
「離れろ」
吐き出された声は、低く冷ややかに沈んでいた。神格が緩やかに視線を清明へと戻す。
「お前は誰だ」
「護衛だ」
「護衛、ねえ」
神格は心底おかしそうに言葉を転がした。
「随分近いな」
その指摘に、清明の双眸が鋭く細められる。
「近い?」
「そうだろう」
神格は軽く肩を揺らして笑った。
「お前は守っているつもりか?」
「それとも所有しているつもりか?」
一瞬、周囲の空気が凍りついたように止まる。清明は躊躇うことなく即答した。
「違う」
「では何だ」
「伴侶だ」
短い沈黙が降りた。神格の瞳が、わずかに細められる。
「面白いことを言う」
「本気だ」
「護衛がか?」
「関係ない」
清明は間合いを殺すように、さらに一歩踏み込んだ。
「主に触れるな」
神格は余裕を崩さずに笑う。
「触れていない」
「今は、な」
その言葉が落ちた瞬間、清明の胸の奥で何かが激しく揺らめいた。
“今は”――。
つまり、そこには過去が存在する。そして、再び訪れる未来の可能性すら示唆している。目に見えないその事実が、静かに喉元を締め上げてくるようだった。
神格は緩慢な動作で、再び視線をこはくへと戻した。
「相変わらずだな」
親しげにも聞こえるその響きが、清明にとっては異質でしかなかった。
知らない。自分は何も知らないのだ。こはくが背負ってきた「その側面」を、己は一欠片も知らなかった。
清明の内で、ある一つの残酷な現実が鮮明に姿を現す。
――自分はまだ、あまりにも足りていない。
神格は興味が失せたように踵を返した。
「また来る」
それだけを残し、霧が溶けるように姿を消しかける。
その瞬間、清明は刀を抜くことも、遮ることもなかった。止められなかったのではない。こはく自身が、その存在を拒み止めていないからだ。
清明はそこに立ち尽くしたまま、ただ静かにその去り際を見送った。
異形の神格が消失したあとに残されたのは、耳が痛むほどの静寂だけだった。清明は胸の底から静かに息を吐き出す。そして、誰に届くでもなく小さく呟いた。
「……知らないものが多すぎるな」
振り返り、こはくの方を見つめても、そこに変化はない。
いつもと変わらず、静かで、平然とそこに佇んでいる。その揺るがない姿を見つめながら、清明は静かに己の思いを反芻していた。
好きだ。その感情に揺らぎはない。
だが同時に、冷徹な理解が胸を刺す。ここは、自分一人だけが許された特別な場所ではないのだという現実を、清明は初めてその「目」で焼き付けられたのだった。
そしてその夜、彼の口説きは、ほんの少しだけその熱量を変化させることになる。
執務の区切りがついた夕刻、屋敷全体を包む空気は少しだけ弛緩していた。
こはくは窓際に佇んでいた。外の陽光は薄く傾き、部屋の床の上に静かな影を長く落としている。そこへ、扉が開く音すら立てず、気配だけがごく自然に近づいてきた。
「ここにいたか」
清明の落ち着いた声の奥に、ようやく探し当てた密やかな安堵が滲んでいる。こはくはゆっくりと振り返るだけで、相変わらず何も言わない。清明はその沈黙すら、当然受けるべき温度として受け入れる。もう、慣れ親しんだ間合いだった。
一歩近づき、距離を詰める。けれど決して押しつけるような無謀な足取りではない。まるで最初からそこに散っていた欠片が、あるべき位置へと戻っていくような自然さだった。清明はしばらくの間こはくを見つめ、それから小さく吐息を漏らした。
「無事でよかった」
こはくからの返答はない。それでも清明は気に留める風もなく、返ってこない静けさの触感そのものを確かめるように佇んでいた。ほんの少しの間を置き、彼の視線がこはくの手元へと滑り落ちる。
「……触れていいか」
こはくは拒絶も承諾も口にせず、ただ身じろぎ一つしない。それを密かな許可と受け取った清明は、壊れ物に触れるようにそっとその手を取った。
繋ぎ止めるような強さも、縛りつけるような力もない。ただ相手の熱を確かめるためだけの指先。
「……ここにいるな」
小さく口の中で呟きながら、指先を滑らせていく。こはくは拒むことなくその温もりに身を任せていた。清明はわずかに肩の力を抜き、安堵を噛みしめるように深く息を吐き出す。
それからさらにもう一度、慎重に距離を詰めた。
今度は手だけでなく、こはくという存在そのものを確かめるように間合いを深める。それでも境界線を乱すことはせず、触れ合うのは最低限の肌だけだ。
それでも、「今ここに存在する」という確固たる実感だけは決して逃さない。清明はしばらく無言のまま、包み込んだこはくの手を見つめていた。
「今日は……」
ふと言葉が途切れ、落ちる。
そして、祈るような静けさを伴って紡がれた。
「少し遠かった気がする」
こはくは何も答えない。清明はそのまま言葉を紡ぐ。
「あなたが、だ」
わずかな沈黙。
それから清明は、自嘲するように小さく口元を緩めた。安堵と寂寥が混ざり合った、独り言のような笑み。
「まあ、いるならいい」
こはくの手をそっと元の場所へと戻す。それでも完全に離しきることはできず、指先だけが未練のように最後まで肌を撫でていた。残像を惜しむかのように。
「次も」
清明はどこまでも静かに、けれど確かに言い含める。
「ここにいてくれ」
やはり返答はない。だが清明にとっては、今この瞬間に拒まれていないことだけで十分らしかった。
もう一度だけこはくの姿をその目に焼き付けると、満足したように目を細めた。
静寂が支配する部屋の中で、清明の波立った心だけが、ゆっくりと穏やかに凪いでいく。
こはくはただ、変わらぬ静けさの中に佇んでいるだけだった。




