薬屋は清明に外界を教える
薬屋が清明の姿を捉えたのは、その日の光が翳り始めた夕刻のことだった。
厳しい鍛錬が終わり、護衛としての持ち場が一区切りついて清明がようやく一人になった隙を、薬屋は見逃さなかった。わざわざ足を運んできたその顔には、隠す気もない好奇と愉悦が透けて見えている。
「ねえ」
投げかけられた声は、驚くほど軽やかだった。
清明が緩やかに振り向く。そこにはいつものように、どこか他人を食ったような薄笑いを浮かべた薬屋が立っていた。
「聞いたよ?」
清明の胸に嫌な予感が過ったが、それを表情の表面に浮かべるような真似はしない。
「何を」
薬屋は楽しげに目を細め、言葉の毒を転がすように言った。
「こはくを伴侶にしたいんだって?」
清明の返答には、一拍の躊躇いすら存在しなかった。
「そうだが」
その一言に、薬屋の笑みがピタリと固まった。
ほんの軽いからかいのつもりだったのだ。誤魔化すか、曖昧に濁すか、あるいは年相応に狼狽えるか。そうした青臭い反応を思い描いていた薬屋は、一切の揺らぎもない真顔で肯定され、不意を突かれたように言葉を詰まらせた。
「……へえ」
「何だ」
「いや、思ったより本気なんだなって」
「本気でなければ言わない」
薬屋の唇の端が、わずかに引きつった。
予想を遥かに超えて面倒な男だ。しかし、せっかく拾った網をそのまま捨てる気も起きず、彼はまだ弄ぶ姿勢を崩さなかった。
薬屋は着物の懐から、小さな硝子瓶を取り出した。
透き通った小瓶の中で、揺れる液体がごく薄い色彩を放っている。それを指先でさらりと振り、陽光に透かしてみせた。
「俺、街で薬屋やっててさ。ここにも使われてるんだけど」
「ほう」
「面白い物あるよ」
清明の冷ややかな視線が、滑るように小瓶へと落ちる。薬屋はどこまでも親しげな笑みを絶やさず、それを差し出してみせた。
「これ、こはくに使ってごらん?」
「すごいよ〜」
その声の軽さは、あまりにもわざとらしかった。
清明は瓶を見つめたまま、すぐには手を伸ばさない。数拍の重苦しい沈黙の後、静かに視線を上げ、薬屋の顔を射抜いた。
「お前」
その静かな呼びかけに、薬屋の笑みが微かに影を落とす。
「こはくに何を使っている」
吐き出された声の温度が、極限まで下がる。一瞬にして周囲の空気全体が凍りついたかのようだった。薬屋は意外そうに目を瞬かせた。
「……は?」
「害はないんだろうな」
薬屋は息を飲んで黙り込んだ。
清明の瞳に宿っていたのは、紛れもない本気だった。相手を試すような揺らぎも、探りを入れるような軽さもない。目の前の存在を明確に「害意ある敵」として定義しようとする、刃のような眼光。
薬屋はそこでようやく思い知った。
この男は、自分が考えていた以上にずっと厄介で、重い。
軽口で揺さぶられることもなければ、からかいで隙を見せることもない。本気で周囲を警戒し、本気で、こはくという存在に触れようとするすべての歪みを凝視しているのだ。
薬屋は差し出していた小瓶を、さっと手元へ引き込めた。
「……いや、ちょっと待って」
清明は無言のまま、氷のような圧を掛け続ける。薬屋は珍しく、降参するように軽く両手を挙げた。
「そういうのじゃない」
「どういうのだ」
「からかっただけ」
「笑えない」
「分かる」
薬屋は素直に頷くしかなかった。
想像を遥かに超える重圧だった。茶化して遊べる器ではなく、その執着の深さは想定の数段上を行っていた。
「媚薬でも毒でもないよ」
「なお悪い」
「聞いて?」
薬屋は呆れたように息を吐きながら、小瓶を指先で軽く揺らした。
「香油。肌につけるやつ」
「香りで気を緩める。落ち着かせる。そういう類」
「害はない」
「主に使っている?」
「使う時もある」
「必要があって?」
「必要がある時にね」
清明の双眸が、鋭く細められる。
「お前、主に何をしている」
「だからそういう顔するのやめてくれる?」
さすがの薬屋も、わずかに背を引いた。
もっと若者らしい動揺を引き出して弄ぶつもりだったのだ。だが目の前の男が抱えているのは、遊びの余地など欠片もない本能的な独占欲だった。薬屋は小瓶を懐の奥へしまい込み、手持ち無沙汰そうに肩を竦めた。
「そんなんじゃないよ」
「なら何だ」
「こはくのこと好きなのは、俺も同じ」
清明の視線が、ピタリと固まった。
「……何だと」
「言っただろ」
薬屋は何の停滞もなく、あっさりとそれを口にした。
「好きだよ、こはくのこと」
「お前も?」
「お前“も”ね」
薬屋は自嘲気味に、少しだけ口元を歪めた。
「何だと思ってたの」
「この屋敷、そういうやつばっかりだよ」
清明は言葉を失い、静まり返る。薬屋は指を一つずつ折るようにして、その混沌の明細を並べ立てていった。
「獄露はあれで重い」
「世話役は口に出さないだけ」
「道満は今さら言うまでもない」
「護衛も、屋敷付きも、大なり小なり主に寄ってる」
「俺もそうだし、何なら屋敷の外もそうだよ」
その声調はどこまでも軽やかでありながら、紡がれる事実の重量だけが場を圧迫していく。
「外界の神々も、異形も」
「主を欲しがるやつなんていくらでもいる」
「求めるやつなんて、数えたらきりがない」
清明は一切の口を挟まず、その言葉の渦を静かに聞き届けていた。薬屋はその瞳の深淵を見つめ返し、浮かべていた笑みを薄く消していく。
「お前さ、本気でこはくを自分だけで守れると思ってる?」
清明は何も答えない。沈黙のまま、ただ薬屋を見つめ返していた。
「伴侶になりたい」
「独占したい」
「他に触れさせたくない」
「分かるよ、皆そう思ってる」
そこに、先ほどまでのふざけた気配は微塵もなかった。
「でもね、お前一人で抱えられるほどあれは小さくない」
清明の瞳の奥が、僅かに揺れた。
「主は、お前一人の手に収まるものじゃない」
「この屋敷だけでも足りない」
「外からも寄ってくる」
「神も来る」
「異形も来る」
「好意も執着も信仰も欲も、全部寄ってくる」
「その全部を見て、それでも独り占めしたいって言うなら」
そこまで一気に畳みかけると、薬屋は初めて清明の目を真っ直ぐに見据え、言葉を落とした。
「お前、思ってるよりずっと大変だよ」
静寂が支配する夕闇の中で、それは真摯な忠告として響いた。茶化す意図のない、本気の声音。
清明はしばらくの間、微動だにせず黙しこくっていた。薬屋もまた、それ以上追撃するように茶化す真似はしない。
落ちてきた静寂を切り裂くように、清明が重々しく口を開いた。
「……私の気持ちは」
薬屋が不審そうに片眉を跳ね上げる。清明は寸分の狂いもない大真面みな顔のまま、淡々と言葉を繋いだ。
「思ったより大変らしいな」
あまりにも的外れで歪んだ受け止め方に、薬屋は数拍フリーズしたあと、堪えきれずに吹き出した。
「いや、そこ真面目に受け取る?」




