時間の使い方
護衛として再配置された清明は、まるであらかじめ誂えられた歯車のように、驚くほど素直に機能した。
術者として優秀であり、護衛として堅実。
他者との連携もそつなくこなし、状況判断も早い。何より、余計なところで摩擦を起こさないのが、組織としては助かった。少なくとも、表向きは。
「戻ったのか」
「短期だがな」
交わされるのは、その程度の淡々としたやり取りだけだ。
「久々だな」と言われることはあっても、「なぜ死んだ者がここにいる」という本質的な疑問には誰も行き着かない。
もとよりこの屋敷は、人ならざる怪異の坩堝なのだ。異形も、神も、獣も息づく混沌の檻において、清明が一度命を落とし、地獄を経由して戻ってきたところで、大仰に驚く者などいなかった。
すべては「そういうものか」と、水が流れるように受け入れられていく。そもそも彼らは、人間の死というものにあまり頓着がないのだ。そしてそれは、清明にとって歓迎すべき冷淡さでもあった。
余計な説明も、詮索も、鬱陶しい感傷すら必要ない。
戻った、だからまた働く。それだけの単純な理屈で事足りる。
そして、その“また”と巡る時間の中に、こはくがいる。彼にとっては、それだけで十分すぎるほどの理由だった。
業務は滞りなくこなした。巡回に立ち、護衛の任につき、術式確認の補佐をこなして、必要とあれば結界の綻びにも触れる。やるべき任務を完璧に消化した上で、彼は空いた時間のすべてを、融けるようにこはくの元へと注ぎ込んだ。
理由はいくらでも捏造できたし、仮に名目がなくとも、彼の足は自然とこはくのいる場所へ向かっていた。
始まりは、音も立てないほど静かなものだった。ただ顔を見に行き、同じ空間を満たす空気を共有し、近くに腰を下ろす。
それだけでも、清明にとっては測り知れない価値があった。またこうして同じ屋根の下で、同じ時間を吸い上げているという事実だけで、最初のうちは渇きが癒やされる心地がしていた。
だが、一度満たされると、さらにその先を欲してしまうのが清明という男の本性だった。そして今の彼は、その貪欲さを隠すつもりなど毛頭ない。
二人きりになる機会を見計らい、こはくが拒絶を示さないと分かれば、影が伸びるように自然な動作で隣へと滑り込む。
距離を詰め、肩へと触れ、その手を取る。その一連の動作は、かつての生前よりもずっと洗練され、自然なものになっていた。
「会いに来た」
悪びれもせず、真面目な顔で言う。
こはくは何も言わず、彼を追い返しもしなかった。その沈黙こそが、清明に確信を与えていた。
手を取り、愛おしげに指先を撫で、その掌を自身の温もりで包み込む。以前よりずっと慣れた手つきで、静かに、けれど確実に熱を伝えていく。
「今日も綺麗だな」
冗談の気配すらない真顔だった。
「顔を見たかった」
指先でその輪郭をなぞる。
「会えない時間が惜しい」
引き寄せるように、肩へ触れる。
「短期なのが不満だ」
こはくはただ、静かにその言葉を受け止めていた。清明はその赤い瞳をまっすぐに見つめ、平然と言葉を重ねる。
「やはり、常駐したい」
「伴侶ならもっと堂々とここにいられるんだが」
もはや、一欠片の躊躇いもなかった。以前の彼よりもずっと静かで、ずっと堂々と、その境界線を越えてくる。
口説き、触れ、求める。そのすべてを、彼は業務の合間にごく当然の権利のように挟み込んできた。
「今日も好きだ」
「会うたびに惚れ直す」
「何度見ても足りない」
「もっと見たい」
「もっと触れたい」
そして、彼の言葉は決まって同じ終着点へと滑り落ちる。
「伴侶になってくれ」
真面目に、毎回本気で。
彼は日々、形を変えた求婚を繰り返した。
「まだ駄目か」
「考えてくれ」
「私は諦めない」
「長くいるつもりだ」
そのたびにこはくは口を閉ざすが、決して拒むこともしない。その拒絶のない境界線の内側へ、清明は一歩ずつ足を進めていく。
触れ、抱き寄せ、額を寄せ、その肩へ腕を回す。
「嫌なら言ってくれ」と最初に免罪符のように告げ、拒まれないと知るや、そのまま腕の中に閉じ込める。その淀みのない自然さこそが、ある種、最もたちが悪かった。
短期派遣の清明は、護衛としてこの上なく優秀であり、そしてその空き時間のすべてを、主への執拗な求愛に費やしていた。
その異変に最初に気づいたのは、他でもない世話役だった。常に屋敷の動線を管理する役職として、それは必然と言えた。
最初は単なる、業務報告のついでだと思われていた。
巡回帰り、護衛報告、地獄側との情報共有、術式の確認。名目はどれも公務として非の打ち所がない。
それにしても頻度がおかしかった。
報告にしては度々訪れ、確認にしてはあまりに長く、護衛の引き継ぎにしては不自然に居座る。何より、一度入ってからの滞在時間が妙に引き延ばされていた。
本来なら数分で済むはずの報告であるにもかかわらず、清明は平然とそこに留まり続ける。
気づけば主の傍らに腰を下ろし、気づけばその手を取り、肩に触れている。
世話役はある日、静かに自身の作業を止めて、その光景を凝視した。
あれは、仕事の距離ではない。少なくとも、事務的な報告を交わす者の境界線ではなかった。
「主への接触頻度について、護衛清明の報告を」
その一言が発せられた瞬間、獄露はあからさまに嫌な顔をして、山積みの書類から視線を上げた。
「何だ」
世話役の報告は、極めて簡潔だった。
「護衛清明、業務外接触が過多です」
獄露を動かす筆が、ぴたりと止まる。
「……具体的に」
世話役は淡々と、事実だけを告げていく。
「巡回後の滞在時間が長い」
「報告名目で訪れ、報告後も残る」
「接触継続、頻度高」
「直近五日、空き時間の大半を主の傍で消費」
執務室に沈黙が降りる。獄露の無言を気にする風もなく、世話役はさらに淡々と追い打ちをかけた。
「身体接触あり。手、肩、抱擁確認」
獄露の眉間に、深い溝が刻まれる。
「主は拒否していません、ただし、護衛としては接触過多」
「業務上必要性薄」
私情を一切挟まない、ただ事実だけを冷徹に並べ立てた報告。それこそが、何よりも不愉快だった。
獄露はしばらくの間、無言でその言葉を反芻していた。
配属時に抱いたあの嫌な予感が、最悪な形で的中したのだと悟る。やはりあの男は面倒だった。しかも、こちらの職務の隙を突くような、最も悪い方向で。
獄露は机の上で硬く指を組んだ。
「……清明」
低く、苦々しげにその名を呼ぶ。
思い返せば、配属されてからのあいつは静かすぎたのだ。
だからこそ、その底の知れなさに警戒すべきだったのだ。物静かな奴ほど、表舞台とは違う場所へ容赦なく泥を持ち込んでくる。獄露は胸の奥から深く息を吐き出した。
「主は拒否していないんだな」
「はい」
「逃がしてもいない」
「はい」
「……面倒だな」
獄露は片手でこめかみを押さえた。主の拒絶があれば話は早い。職権乱用として即座に排除して終わる話だ。
だが、拒まれていないという事実こそが、この問題を一気に泥沼化させていた。主がそれを許している以上、護衛の立場として即座に切り捨てる大義名分が立たない。
とはいえ、護衛が主に対して業務外で過剰に接触している現状を、このまま放置するわけにもいかなかった。
そして何より、嫌な予感が確信に変わっていく。これは単なる距離感の狂いなどではない。清明は、明確な意図を持って主の傍らに居座り、既成事実を積み上げているのだ。
そこに至って、獄露は脳裏にあの閻魔の、すべてを見透かしたような厭らしい笑みを思い出した。
獄露の眉間が、さらに深く寄せられる。
「あいつ……知っていたな」
世話役は無言で佇んでいる。獄露は諦念を込めて、深々と息を吐き出した。
「清明を呼べ」
短く下された命令に、世話役は一礼して音もなく退室していった。
静まり返った執務室で、獄露は机に肘をつき、苦渋に満ちた顔で額を押さえた。
地獄側からの短期派遣、護衛補佐、術式の支援。
用意された名目は、そのすべてがあの男にとっての便利な建前に過ぎなかったのだ。本命の目的は、最初から別の場所にあった。
獄露は冷え切った視線を手元の書類へと落とし、忌々しげに低く吐き捨てた。
「……求愛目的で護衛申請を通すな」




