清明、惚れ直す
鍛錬所へと近づくにつれ、周囲の空気の密度が目に見えて変わっていくのが分かった。
鼻腔を突くのは、天日に干された乾いた土の匂い。静寂を破るように響き渡る、肉体と肉体、あるいは木器が激しく打ち合う鈍い音。
そして、肌を刺すような護衛たちの張り詰めた闘気。そこには、戦う者たちだけが共有する独特の熱量が渦巻いていた。
清明は足取りを緩めることなく、そのまま鍛錬所の広い縁側へと姿を現した。最初に向かえてくれたのは、視界を遮るように激しく舞い上がる凄まじい土埃だった。空間を弾くような鋭い足音が響き、その周囲を取り囲む護衛たちが、一様に低く息を呑む気配が伝わってくる。
そして、その混沌とした熱気の中心に、他でもない――こはくがいた。
清明は、まるで見えない壁に突き当たったかのように、一瞬だけ足を止めた。
鍛錬所の中央、もうもうと立ち込める砂塵のなかで、一筋の「白い影」が鮮烈に一閃する。
一歩。ただ、それだけの挙動だった。
主が地を蹴り、踏み込んだ――そう認識した次の瞬間には、対峙していた巨躯の護衛が、無様に地を転がっていた。
受ける間さえ与えられず、構え直す暇すら奪われた、圧倒的な速度。
吹き飛ばされた護衛は背中で土を擦りながら何メートルも滑り、肺の空気を絞り出されたように激しく呻いている。しかし、その圧倒的な破壊をもたらした張本人であるこはくは、まるでそよ風に吹かれただけであるかのように、端然とその場に佇んでいた。
静まり返った横顔。微塵の乱れもない、穏やかな呼吸。翻った白い袖は、既に何事もなかったかのようにその腕に馴染んでいる。
ただ、その燃えるような紅い瞳だけが、冷徹に次の対戦相手を見据えていた。
「……」
清明は、言葉のすべてを喉の奥で失っていた。
次の護衛が、決意を秘めて前へと進み出る。鍛錬用の木製武器を固く握り締め、重心を極限まで低く落としながら、慎重に、慎重に間合いを詰めていく。その身のこなしは速い。一人の護衛として、十分に一級品の速度だった。
だが、こはくが動いた瞬間、世界の速度が変わった。見えなかった。本当に、瞬き一つの間すらなかった。
踏み込んだという気配だけが、爆音のように遅れて鼓膜に届く。視界の端で白い布地がふわりと揺れた、そう思った次の瞬間には、挑戦者の身体が重力を失ったかのように宙を滑っていた。
鈍い衝撃音。激しく巻き上がる土煙。容赦なく地面へと叩きつけられた護衛が、苦悶の声を漏らす。
それで終わりだった。こはくは既に興味を失ったように、視線をさらにその奥へと向けている。速い、などという凡庸な言葉では、今の現象を説明するには到底足りなかった。
そこには迷いがなく、淀みがない。相手を傷つけることへの躊躇も、己の力を誇示するような驕りも一切なかった。ただただ静かで、その静寂のまま、絶対的なまでの力で空間を支配していた。
清明は、その光景を前にして初めて気づかされた。こはくがこうして純粋な「武」として戦う姿を、自分はこれまでの人生で一度も見認めたことがなかったのだと。
かつて守られる側であった姿。あるいは、静かな威圧感で周囲を統率する主としての気配。その一面的な強さは知っていたつもりだった。けれど、こうして真正面から、圧倒的な質量と技術をもって他者を完璧に制圧する苛烈な姿は、彼の記憶のどこを探しても存在しなかった。知らなかったのだ。
また次の一人が前に出され、そして一瞬で地へと落とされる。
速い。あまりにも、世界の理理から逸脱して速い。
挑んでいる護衛たちも、決して弱卒の類ではない。むしろこの屋敷を守るにふさわしい、選りすぐりの強者たちだ。それでもなお、勝負という形にすらなっていなかった。
触れる前に体勢を崩され、踏み込む前に意識を刈り取られる。視線を合わせたと思った時には、既に勝敗は決しているのだ。文字通りの圧勝。それだけの劇的な戦闘を繰り広げながら、こはくは息一つ乱していない。ただ静かなまま。何も語らず。淡々と、襲い来る波を足元で砕くように、護衛たちを圧倒し続けていく。
清明は、その一挙手一投足に完全に目を奪われていた。思考の歯車が一瞬だけ、その美しさに圧倒されて遅れる。
綺麗だ、と思った。胸の真ん中に真っ先に突き刺さったのは、その至純な感情だった。
強い、という畏怖ではなく。恐ろしい、という戦慄でもなく。ただただ、ひどく綺麗だと思った。
一切の無駄が削ぎ落とされ、洗練の極みに達している。何一つの迷いもなく、最小限の、しかし最適な動きだけで相手を無力化していくその様は、静謐でありながら、どうしようもないほどに観る者の視線を惹きつけて離さない魔力があった。
立ち込める土煙の向こうで、白い袖が鮮やかに翻る。冷徹な紅い瞳が、次なる標的を冷たく捉える。しなやかで細い身体が、物理法則を無視したような速度で間合いを完全に潰す。
その残酷なまでの躍動のすべてが、清明の目にはひどく美しく、そして愛おしく映った。彼はそこで、ようやく己の魂のなかに眠る新たな真実に思い至る。
見たことがない。まだ、この方は、自分の知らない無数の姿をその内に秘めているのだ。
すべてを知ったつもりでいた。誰よりも近くに寄り添ってきたつもりでいた。気の遠くなるような時間をかけて、その一挙手一投足を見届けてきたつもりでいた。
それなのに、今この瞬間にも、初めて見る激情の顔がある。初めて知る峻烈な姿がある。その厳然たる事実に、彼の胸は、生前よりも激しく、ひどく強く掴まれていた。
最後の護衛が砂に沈み、こはくが静かにその場に佇む。
その凛とした背中を見つめつづけながら、清明は確信していた。やはり、好きだ。言葉にするのも愚かしいほど、改めて、はっきりと、魂の底からそう思う。
好きだ。
その白い肌に触れたい。もっと近くで、その呼吸を感じていたい。その瞳に映るすべてを見つめたい。まだ自分の知らない、その内の深淵を知り尽くしたい。
この先も、ずっと隣で見続けたい。あなたがこれから見せるであろう、まだ見ぬ姿を、いくつも、いくつも。
清明の喉が、愛おしさと渇望のあまり、わずかに鳴った。惚れ直した、と彼は自嘲気味に思った。
今更、これが何度目の地転の恋なのか、もう数えることすらできない。だが確かに、彼は今、この瞬間にまた、目の前の主へ鮮烈に惚れ直していた。
人間として生きていた頃から、何度も、何度も同じことを繰り返してきたのだ。その姿を見て、新しい一面を知るたびに、新鮮な熱量で好きになり直してきた。
死んで魂だけになり、地獄の冷たい空気で熱を落とされたはずの今になってもなお、同じ愚行を繰り返すのかと、胸の奥で少しだけおかしさが込み上げてくる。
だが、それも仕方のないことだった。
現に、欲しくてたまらない存在が、こうして目の前に立っている。こんな風に、まだ見たこともない至高の姿を、これ見よがしに突きつけてくるのだ。これで好きにならない理由が、この世界のどこにあるというのか。
清明は深く、静かに胸の内の熱を吐き出した。その切れ長の視線は、鍛錬所の中央に立つ白い影から、微塵も動くことはない。
やはり、どうしようもなく好きだ。やはり、この方が欲しい。他者の手になど渡さず、我が伴侶にしたい。その想いは、もはや揺るがぬ岩盤のように、彼の中心で深く、静かに定着していた。
次こそは絶対に、引き裂かれることのない確かな形で。永遠の契約をもって、必ず伴侶にする。
舞い散る土煙のなか、清明は誰に告げるでもなく、その狂おしいほどの意志を、静かに、そして冷徹に固めていた。




