屋敷短期派遣 護衛清明
その申請は、こちらの懸念が拍子抜けするほど、驚くほどあっさりと承認の関門を通り抜けた。
獄露は手元に戻ってきた決裁済みの書類を見つめたまま、しばらくの間、彫像のように凝固していた。
そこには、紛れもない主の印――こはくの承認を示す朱が押されている。
獄露は静かに書類を閉じると、胸の奥に溜まった澱を吐き出すように、深く重い息を漏らした。
「……そうなるか」
最悪の予測の範囲内ではあった。あったが、同時に、回避不能な面倒が確定した瞬間でもあった。こうして主の判が下りてしまった以上、もはや何者もその流れを止めることはできない。
獄露は感情を一切排した事務処理で、即座に受け入れの手続きを完了させた。そして、その迅速な事務処理の結実として、清明はその日のうちに、再びあの懐かしい屋敷の敷地を踏むこととなった。
清明が最初に通されたのは、重厚な扉の向こうにある獄露の執務室だった。見上げるほどに高い天井と、几帳面なまでに整えられた机の数々。そこには、絶え間なく舞い込む書類の山が整然と築かれている。静まり返った室内に響くのは、ただ淡々と紙を捲る乾いた音だけだった。
部屋の中央に据えられた執務机では、獄露が視線を落としたまま書類の精査に没頭している。
そこに、こはくの姿はなかった。その決定的な不在を、清明は部屋に一歩足を踏み入れたその刹那の空気で、鋭敏に察知していた。
あの澄んだ気配が、ここにはない。視線を巡らせて確認するまでもなく、魂の境界がその欠落を告げていた。胸の奥が、ほんのわずかに、寂寥感で削り取られる。
会いたかった。
戻ってきたのだと、他でもない最初の瞬間にそちらへ伝えたかった。その愛しい顔を見たかった。たとえ言葉が交わされずとも、ただ同じ空間にその存在があるという事実を、この目で、肌で、確かめたかった。
だが同時に、その姿がここにないという事実に、奇妙な安堵を覚えている自分もいた。もし今、この場所にこはくが佇んでいたなら、自分は間違いなく、世界のすべてを放り出して最初にそちらを見ていただろう。
義務も立場も忘れて、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、その側へと歩み寄ってしまいたくなったはずだ。その醜態を晒さずに済んだのは、不幸中の幸いと言えた。
清明は胸の奥から競り上がってくる熱い衝動を、冷徹な理性の底へと無理やり押し込み、正面の獄露へとまっすぐに向き直った。
「清明だ。本日付で着任した」
削ぎ落とされた、簡潔極まる名乗りだった。獄露は手元の書類からゆっくりと目を上げ、清明の姿を冷ややかに一瞥した。それはまるで、新しく納品された道具の耐久性を測るかのような、短く、しかし冷徹な値踏みの視線だった。それ以上の関心は不要とでも言うように、彼の視線はすぐに手元の紙面へと戻される。
「清明」
その名を、ただの記号として確認するように呟きながら、獄露は書類の束から一枚の紙を抜き取った。
「地獄側短期派遣」
「術式支援、護衛補佐」
抑揚のない声で事務的に読み上げ、その紙を再び机の上へと滑らせる。
「所属は護衛」
そこで一度、冷たい刃を落とすように言葉が切られた。獄露は再び顔を上げ、清明の瞳の奥を見据える。
「以上だ」
清明は一拍の間、沈黙した。あまりにも簡潔で、歓迎の欠片もない事務連絡。だが、彼にとっては、それだけで十分すぎるほどだった。
護衛。その肩書きさえ手に入れば、他には何も要らなかった。清明は静かに、しかし力強く頷く。
「了解した」
獄露はそれ以上、一言も言葉を重ねようとはしなかった。戻ってきた部下への歓迎もなければ、牽制の言葉もない。腹の底を探るような余計な探りすら入れず、ただ必要な事実だけを冷たく告げて、この時間を終わらせようとしている。いかにも彼らしい、徹底した合理主義の具現化だった。
だが、それは清明にとって、この上なく都合の良い展開でもあった。無駄な会話がなければ、余計な詮索に思考を割く必要もない。少なくとも今この瞬間においては、己の胸の内に秘めた濁った私情が、白日の下に晒されることは防げたのだから。
こはくを我が伴侶にという狂おしい求愛の意志も、閻魔が裏で糸を引く本音も、まだこの静かな部屋の表面には浮き上がっていない。
獄露は用済みとなった書類を、興味を失ったように横へと退けた。
「短期だろうが扱いは屋敷付きだ。規律に従え」
「持ち場は追って回す」
「まずは護衛に顔を出せ」
清明は短く、ただその指示を呑み込む。
「了解」
それで、すべての手続きは完了した。あっけないほど静かな着任だった。獄露は既に、清明の存在など意識の外へ追いやったかのように、次の書類へと視線を落とし、筆を動かし始めている。これ以上、彼と言葉を交わす意志がないのは明白だった。清明もまた、そこに長居する理由はなかった。
本来の衝動に従うならば、この足を一歩も止めず、真っ直ぐにこはくの居所へと向かいたかったはずだ。「戻った」と告げたかった。また同じ屋根の下で、同じ時間を刻めるようになったのだと、最初にその瞳を見て確かめたかった。
会いたい。その焦がれるような欲求は、確かに彼の中心で脈打っている。だが、今はその時ではない。
着任直後という微妙な立場であり、与えられた所属はあくまで一介の護衛に過ぎない。まずは組織としての筋を通し、己の立場を確定させるべきだった。
清明は胸を焦がす衝動のすべてを喉の奥へと飲み下し、深く一礼した。
「失礼する」
踵を返し、静かに執務室の重い扉を押し開ける。背後で扉が閉まり、静寂に満ちた長い廊下へと出た瞬間、彼はようやく張り詰めていた息を深く吐き出した。
会いに行きたい。すぐにでも、その姿をこの目に焼き付けたい。
だが、彼は歩みを止めなかった。今ここで感情のままに動けば、それはただの「焦り」として周囲に映るだろう。まだ、その時ではない。
まずは護衛の連中に顔を出す。己の立場を周囲に認めさせ、組織としての所属を完璧に通す。それが先決だ。清明は自らの進路を切り替え、迷いのない足取りで歩き出した。
向かう先は、荒々しい気配の集まる鍛錬所。護衛たちが己の牙を研ぎ澄ます場所であり、かつて知った懐かしい気配が色濃く漂う方角へと、清明はただ真っ直ぐに歩みを進めていった。




