魂と今世の記憶
「それにしても、お前がね」
閻魔は机に肘をついた姿勢のまま、万華鏡のなかの珍しい模様でも眺めるように清明を見つめる。
「前回も、こはくとは面識あっただろ」
清明は過去の記憶を手繰り寄せるように、一度ゆっくりと目を伏せた。
「……あったなようだな。前世の記憶は無いが」
「知り合いではあったらしい、仕事で顔を合わせる程度には」
閻魔は、記憶の正しさを証明するように深く頷く。
「そう、前も会ってる」
「同じようにこっちへ来て、同じように顔を合わせて、同じように並んで仕事もしてた」
積まれた書類の端を、指先で軽く叩きながら、閻魔はさらに言葉を紡いでいく。
「でも今みたいじゃなかった」
「仲は悪くなかったけどね、せいぜい気の合う同僚」
「ちょっと仲のいい仕事仲間。そのくらいだった」
清明は反論の余地を持たず、黙って聞き入っている。閻魔の目が、過去の光景を思い描くように細められた。
「少なくとも、“伴侶にしたいから屋敷へ戻してくれ”なんて顔はしてなかった」
「そんなこと言うお前、今回が初めてだよ」
清明はしばらくの間、己の胸中に去来する想いを噛み締めるように黙り込み、やがて静かに息を吐いた。
「そうか」
「そうだよ」
閻魔は頬杖をついたまま、何がその差を生んだのかを探るように、少しだけ首を傾げる。
「面白いもんだね」
「同じ魂で、同じように出会ってるのに、毎回同じ形にはならない」
「今回はかなり極端だけど」
清明は目を伏せたまま、地獄の王が語る魂の神秘を、否定せずに静かに受け止めている。そんな彼を見つめる閻魔の顔が、ほんの少しだけ真面目な色を帯びた。
「多分、生きてたからだろうね」
その言葉に、清明が再び顔を上げる。閻魔は、まるで世界の仕組みを淡々と説くように言葉を続けた。
「人でいる時の方が、欲も感情もずっと強い」
「不便で、脆くて、面倒なぶんだけね」
「飢えるし、焦るし、欲しがる」
「触れたい、手に入れたい、失いたくない、もっと欲しい」
「死者になると、その辺は一度均される」
机の上で十指を静かに組み、閻魔は静寂そのもののような声で言う。
「死ねば熱は落ちる」
「執着も、欲も、痛みも、一度冷える」
「だから普通は、生前の感情なんてもう少し薄まる」
「輪郭は残っても、熱量は落ちる」
清明は、まるで波ひとつ立たない湖面のように静かに聞いていた。閻魔はそこで、ふっと相好を崩して少し笑う。
「お前は生前に燃やし切ったんだろうね」
清明の目が、驚きか、あるいは得心か、わずかに細まる。
「人間の一生ぶん、好きだった」
閻魔はその紛れもない事実を、決して軽くは言わなかった。
「若い頃からずっと見て、追って、触れて、欲しがって」
「手順踏んで、我慢して、口説いて、老いて」
「その一生分を、きっちり抱えて死んだ」
「だから死後に熱が落ちても、形だけ残った」
そこにあるのは荒れ狂う炎ではなく、石に刻まれた深い溝のようなものだ。閻魔は感心したように肩を竦める。
「熱そのものは生前ほど荒くない」
「でも、何十年も積み上げた“選ぶ”だけが残った」
清明は何も言わず、ただその言葉を肯定するように沈黙を保っている。閻魔はその静けさを見つめながら、少しだけ目を細めた。
「だから今のお前は、欲深いのに妙に落ち着いてる」
「生前みたいに焦ってない」
「でも欲しいものは決まってる」
「しかも、もう迷わない」
清明はしばらくの間、彫像のように黙り込んでいたが、やがて己の業の深さを認めるように、密やかに小さく笑った。
「厄介だな」
「かなりね」
閻魔は間髪入れずに即答した。
「道満が頭抱えるのも分かる」
「前回は、あいつとお前、ただの仲いい同僚だったからまだ平和だったんだよ」
「今は違う」
閻魔は再び机に頬杖をつくと、これから始まる騒動を予感して、実に楽しそうに笑う。
「片方は執着、片方は求愛」
「どっちも退かない。しかも、どっちも本気」
「こはくも大変だ」
清明は、主の受難を想うように少しだけ目を伏せた。
「……そうかもしれないな」
だが、その低く響く声音には、一歩たりとも引く気がないという確固たる意志が滲んでいた。閻魔はそれを見逃さず、またも愉快そうに笑う。
「で?」
頬杖を突いたまま、値踏みするような視線で清明を見つめる。
「それでも戻りたい?」
清明は、一拍の迷いも、塵ほどの躊躇いも置かずに答えた。
「戻りたい」
その潔さに、閻魔は再び肩を震わせて破顔した。
「だろうね」
閻魔はひとしきり笑ったあと、名残惜しそうに表情を戻し、机の上に散らばる書類の中から二、三枚を手元へと引き寄せた。
「……まあ、いいか」
口では如何にも面倒そうに言いながらも、その手には既に滑らかな筆が握られている。清明がかすかに目を細め、その動向を注視する。閻魔は紙面へと視線を落としたまま、淀みのない動作でさらさらと筆を走らせ始めた。
「俺から短期派遣の申請は出しとくよ」
あまりにもあっさりとした前言撤回だった。清明は一瞬、拍子抜けしたように黙り込む。
「通るのか」
「申請を出すだけならね」
閻魔は、筆の走る微かな音を響かせながら、淡々と答える。
「名目は護衛補佐、術式支援、地獄側との連携確認。ついでに現地観測」
「建前はそれで十分」
筆先を一瞬たりとも止めず、流れるような手さばきでさらりと言い添えた。
「本音はお前の私情だけど」
清明は、それを否定するような無駄な抵抗はしない。閻魔はくすくすと小さく笑った。
「こはくはまあ、断らないだろうね」
その点に関しては、確信に満ちた即答だった。
「来るなと言われる未来はあまり見えない」
「お前が行きたいと言えば、あれはたぶん普通に通す」
清明の冷徹だった目元が、春の雪解けのようにわずかに和らぐ。閻魔はそれを見逃さず、横目で捉えながらくつくつと喉を鳴らして笑った。
「問題は獄露だな」
突如、さらさらと動いていた筆が止まる。閻魔は紙の上で再び頬杖をつき、今度は明確に、少しだけ嫌そうな顔を作ってみせた。
「融通利かないし、身内判定が妙に厳しい」
「護衛枠の追加そのものは、理屈が通れば通ると思う」
「でもお前個人となると話が別だ」
清明は、迫り来る障壁の存在を静かに聞いている。閻魔は皮肉を込めて口元を歪めた。
「お前がこはくに求愛してるって知ったら、通らないかもね」
清明は、一拍の短い思考ののち、事も無げに言った。
「隠せばいいか」
その言葉が引き金となり、閻魔は盛大に吹き出した。
「無理だろ」
これ以上ないほどの即答だった。
「お前、隠すの致命的に下手じゃん」
「真顔で伴侶にしたいとか言う男が何を隠せるの」
清明は、あごに手を当てて少し考え込むような顔をした。しかし、その隠蔽工作に考える余地があると思っている時点で、既に手遅れなのだ。閻魔は堪えきれないといった風に肩を揺らして笑う。
「こはくの隣に立って三日でばれるよ」
「目が違う、触り方も違う」
「多分薬屋あたりは初日で察する」
「獄露は二日目で止めに来る」
「道満は見た瞬間から止めてる」
清明は、思い通りにいかない未来を予想して、少しだけ不満げに眉を寄せた。
「道満は最初から止めている」
「それはそう」
閻魔は可笑しそうに笑いながら深く頷く。
「でも獄露は面倒だよ」
「理屈で切るし、主の周りに余計な執着を増やしたくないタイプだ」
「しかも自分が既に重いから、他人の重さには厳しい」
清明は少しの間、沈黙を守った。
「厄介だな」
「かなりね」
そう同意しながら、閻魔は迷いのない動作で、さらりと申請書へ朱鮮やかな印を押した。
「お前が“護衛として有用”なのは事実」
「“術者として使える”も通る」
「“地獄側の人員”も通る」
押印された紙を綺麗に整えながら、閻魔は意地の悪い歓びに瞳を輝かせ、楽しそうに笑う。
「でも“こはくを伴侶にしたいので近くに置いてください”は絶対通らない」
清明は、一切の揺らぎのない真顔で言った。
「本題だが」
「だから却下されるんだよ」
閻魔は、その頑なな姿勢に即座にツッコミを返した。清明は返す言葉を失い、黙り込む。閻魔は完成した書類をパタパタと軽く揃え、机の端に置いた。
「まあ、俺から出せば入口は作れる」
「通るかは向こう次第、こはくは多分通す」
「獄露は半々、道満は全力で嫌がる」
閻魔はそこで、まるで極上の余興を控えた観客のように、不敵に口元を吊り上げた。
「面白くなりそうだ」
清明は、己を巻き込む嵐を愉しもうとする上司を無言で見つめる。閻魔は頬杖をつき、ひたすらに愉快そうに白い歯を見せて笑った。
「通るといいね」
「お前の求愛、社内審査付きだけど」




