死んでも清明は屋敷に戻りたい
清明が閻魔の執務室へと足を運ぶ時、その懐には大抵ろくでもない相談事が忍ばされている。
それは閻魔が長年の経験から導き出した確信であり、そして悲しいかな、その予測が外れることは滅多になかった。
室内には、うず高く積まれた書類の山と、数多の宿命を決定づけてきた裁定印。そして、深い闇の底で微かに揺らめく、淡く燃える灯火がある。地獄の最奥に位置する執務室は、永久に続くかのような静寂に包まれていた。
しかし、その凝り固まった静けさを切り裂くでもなく、清明はいつもの飄々とした、それでいて底の知れない笑みを湛えて入ってくる。
閻魔は手元の書類から視線を上げるなり、彼が口を開くより早く、先制の一撃を放った。
「却下」
清明は、滑るように動かしていた足をぴたりと止めた。
「まだ何も言っていない」
「言う前から、嫌な予感が満ち満ちているんだよ」
閻魔は再び視線を紙面へと戻し、事務的に頁を捲りながら淡々と返す。
「で、何」
清明は、水を打ったように少しの間だけ沈黙した。それから、いつもとは明らかに音色の違う、妙に真面目な声を響かせる。
「屋敷付きに戻してくれないか」
その言葉に、閻魔の動いていた手がぴたりと止まった。椅子のきしむ音と共に、ゆっくりと顔が上げられる。
対峙する清明の表情には、いつもの煙に巻くような軽薄さは一切なかった。冗談という名の仮面を綺麗に剥ぎ取ったその顔は、冷徹なまでに透き通った、あの「本気」の眼差しそのものである。閻魔はまるで奇妙な置物でも観察するようにしばらく無言で見つめ合ったあと、肺腑の底から深い溜息を吐き出した。
「ほらな」
やはり、嫌な予感は的中する運命にあったらしい。
「理由を聞こうか」
清明は、大局を見据える軍師のような潔さで、素直に頷いた。
「またあちらで、こはくと過ごしたい」
迷いのない、あまりにもまっすぐな即答だった。閻魔は机に肘をつくと、押し寄せる頭痛を堪えるようにこめかみを指先で押さえた。
「率直だね」
「率直に言った方が早いだろう」
「早いけど、持ち込まれるこっちの身になれば面倒極まりないよ」
しかし清明は、相手の辟易した態度などどこ吹く風とばかりに言葉を重ねていく。
「今はこはくが地獄へ来た時しか会えない」
「足りない」
閻魔は、吸い寄せられるように再び顔を上げた。
「足りない?」
「足りない」
清明は、まるで動かしようのない理を告げるかのように、あまりにも真面目な声で繰り返す。
「会える。触れられる。話せる。だが頻度が足りない」
「地獄で会える時間だけでは不足だ」
そのあまりの堂々とした物言いに、閻魔は思わず吹き出しそうになった。凍りついた地獄の王座の前で、これほど真摯に、そして身も蓋もない熱情を吐露する男がどこにいるだろうか。だが、清明の瞳の奥で揺らめく光は、どこまでも本気だった。
「屋敷にいれば、もっと長く共にいられる」
「護衛もできる、近くにいられる」
「伴侶候補として進展も早い」
「最後の一言で急に却下したくなったな」
閻魔が即座に言葉を差し挟むと、清明は不可解そうに首を傾げた。
「何故だ」
理由は十分すぎるほどある。閻魔は深く重い息を吐き出しながら、椅子の背もたれへと深く身体を凭れ掛けさせた。
「……気持ちは分からなくもないよ」
清明は反論せず、ただ静かに次の言葉を待つ。閻魔は天井の暗がりに視線を彷徨わせたまま、静かに、そして一文字ずつ噛み締めるように呟いた。
「本来、死は分かつものだ」
その声音は、先ほどまでの軽いやり取りとは打って変わり、地獄の底を流れる濁流のように低く響いた。
「生者と死者は別れる。人と人ならそこで終わりだ」
「会えない。触れられない。二度と顔も見られない」
それこそが世界の理であり、彼が幾星霜にわたって見届けてきた、絶対的な裁定の響きだった。
「それが普通だ」
清明は、その言葉の重みをすべて受け止めるように、黙って耳を傾けている。
「お前はまだ恵まれてる方だよ」
閻魔は視線を天井から戻し、眼前の死者を見据えた。
「死んでも会える」
「触れられる」
「言葉も届く」
「顔も見られる」
「好きな相手が、まだ同じ場所へ来る」
「それだけで、本来は相当ましだ」
清明は、まるで己の内面を覗き込むように、少しだけ睫毛を伏せた。
閻魔の言う通り、自分がどれほど奇跡的な境界に立っているかは理解している。否定するつもりなど毛頭ない。
すべてを分かっていてなお、彼の魂に刻まれた渇きは癒えないのだ。閻魔はその頑なな横顔を見て、皮肉と諦念の入り混じった笑みを零した。
「欲深いね」
「知っている」
返す刀で即答する清明に、閻魔は降参とばかりに両肩を竦めてみせる。
「だろうね」
それから、閻魔は微かに表情を引き締め、事務官としての真面目な顔つきに戻った。
「実際、地獄の獄卒の一部は屋敷へ派遣されてる」
その言葉に、伏せられていた清明の顔が僅かに上がる。
「道満もそうだし、他にも前例はある」
「こはくの護衛や管理に、こっちの手が必要な時もあるからね」
「制度としては不可能じゃない」
清明の切れ長の目が、期待に僅かばかり細くなる。だが、閻魔は逃げ道を塞ぐように言葉を繋いだ。
「でもお前は別だ」
その冷徹な宣告に、清明は再び口を閉ざす。閻魔は机に頬杖をつき、彼の魂の構造を解き明かすように語りかけた。
「お前の魂は、輪廻へ戻す前にこっちで浄化を回してる」
「獄卒として働かさせてるのは、便利だからだけじゃない」
「お前の魂そのものが、こっちで一度熱を落とす構造になってる」
清明は、己の存在の根源を語る声を、ただ静かに聞き届けている。
「代々そうしてる、輪廻へ戻す前に地獄へ置く」
「裁き、触れ、削り、落として、次へ返す」
「お前の魂はその循環前提で回ってる」
閻魔は、どうしようもないシステムを説明するように肩を竦めた。
「つまり、勝手に長期で持ち出されると困る」
清明はしばらくの間、深い沈黙に身を沈めた。やがて、滑らかな額に少しだけ不満の皺を寄せる。
「仕事の都合か」
「かなり雑に言うとそう」
「雑だな」
「分かりやすいだろ」
閻魔は手にしていた書類を、パサリと音を立てて机へと戻した。
「お前はただの死者じゃない」
「こっちで回して、整えて、戻す前提の魂だ」
「屋敷へ長く出すと、次の巡りに響く」
「だから常駐は難しい」
清明は、またも沈黙に沈んだ。突きつけられた理屈は、冷徹なまでに筋が通っている。だが、頭での納得と、魂の満足は全くの別物であった。閻魔は、まるで拗ねた子供のように押し黙る清明の顔を見て、今度は少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
「とはいえ、完全に駄目とも言ってない」
清明の鋭い視線が、跳ね上がるように閻魔を捉える。その反応を愉しむように、閻魔は口元を歪めた。
「短期派遣なら考えてもいい」
清明の目が、射抜くように僅かに細くなる。
「定期で屋敷へ戻す」
「期間限定、護衛名目、ついでに様子見」
「その間に好きに口説けば?」
清明は数拍の静寂を置いたあと、地獄の底冷えする空気さえ溶かすような声で、静かに、しかし断固として言った。
「ついでが逆だ」
閻魔はついに堪えきれずに吹き出し、しばらくの間、大笑いしながら肩を激しく揺らしていた。
「ついでが逆、か」
可笑しさが込み上げて止まらないといった様子でその言葉を繰り返し、頬杖をついたまま、愛おしい奇物を見るような目で清明を見やる。
「はー……」
ようやく笑いの余韻を吐き出すように、長く息をついた。




