伴侶として
清明は、こはくの隣へと腰を下ろすたびに、魂の最奥から不思議なほど穏やかな凪が広がっていくのを感じていた。
永遠とも呼べる時を味方につけたからこそ、一つひとつの瞬感を、溢さぬように丁寧に積み重ねていける。
清明は、こはくの凍てつくように冷たい手を、壊れ物を扱うような手つきでそっと自らの掌に包み込んだ。
骨の輪郭が浮き出るような細い指先を包み、その長い指の一本一本を慈しむように、ゆっくりと、愛おしさをなぞるように撫でていく。
地獄の底でその静かな温度を確かめながら、彼は何十年もの間、胸の内に深く秘め、大切に育て続けてきた唯一無二の願いを、一切の虚飾を排してまっすぐに口にした。
「次に乱れた時は、私に一番に教えてくれ」
その声は、広大な湖面を渡る微風のように、驚くほど穏やかに響いた。
こはくの沈黙のなかに潜む微かな波紋を感じ取りながら、静かに、しかし断固とした調子で言葉を続ける。
「最初に呼ばれたい」
白磁のような指先を、自らの指で優しくなぞり直す。その小さな掌を包み込み、そこへ宿る微かな、だが確かに存在する熱を感じながら、彼にとっては呼吸をするのと同じくらいごく自然な結論を紡いだ。
「伴侶なら、それが当然だ」
その傲岸不遜とも言える宣言が放たれた瞬間、視界の端で、張り詰めていた道満の気配が爆発するように大きく歪んだのが分かった。
おそらくまた、鬼瓦のような形相で、盛大に眉間へ皺を寄せているのだろう。
清明はこはくの指先へと、自らの唇が触れるか触れないかという極限の距離まで顔を近づけた。ただ深すぎる愛おしさだけを瞳に灯し、睫毛を細めながら、呪文を吹き込むように言葉を重ねる。
「支えるのも、落とせるのも、満たすのも、私の役目にしたい」
それは、己の身を焦がすような身勝手な「欲」ではなかった。ようやく本当に言うべき言葉を言えた、そんな奇妙な充足感が彼を満たしていく。
「他の者を先に呼ばれるのは、あまり愉快ではない」
その独占欲の塊のような言葉が落ちた瞬間、鼓膜を破らんばかりの盛大な舌打ちが室内に響き渡った。
「独占欲を隠せ」
背後から飛んできた道満の怒声に、清明はただ無垢に、小さく瞬きを返してみせる。そもそも、それを隠さねばならない理由が、彼の合理的な思考のどこを探しても見当たらなかったのだ。
「隠していない」
当然の真理を述べるように、淡々と答える。
「隠す必要があるか?」
「ある!」
「何故」
「何故ではない!」
道満は髪を逆立てんばかりに、本気で憤慨していた。心から愛する相手に対して、己の切なる願いを告げることの、一体どこに咎められる要素があるというのだろう。だから彼は、自らの魂に刻まれた思想を、思ったままに言葉へと変えていく。
「好きな相手に最初に求められたいと思うのは自然だろう」
「まして、今の自分に受け止められる力があるならなおさらだ」
「私はできる、なら私を使ってほしい」
それは、決して己の意思を強いる押しつけなどではなかった。それを選ぶか否かの絶対的な権利は、いつだって、どこにあってもこはくの手の中にある。だからこそ、彼は傲慢に命じるのではなく、ただ虔烈に願うのだ。
清明は、こはくの白い手の上で、自らの指先を滑らせる。その柔らかな皮膜に触れるたび、その狂おしい温度を、二度と忘れないように魂へと記憶させていく。
「乱れた時だけじゃない」
滑らせていた手を止め、ゆっくりと、視線の高さを合わせるように覗き込んだ。そこにたたずむ紅い瞳は、風のない夜の静かな湖面のように、どこまでも澄み切っていた。
「普段でもいい、眠れない時も、身体が熱い時も……触れたい時も」
もし、その気まぐれな心が、この手を求めてくれるというのなら。自分はどんな世界の果てからでも、何度でもその声に応えてみせる。
「私を呼んでくれ。一番に」
見つめ合う紅い瞳の奥が、ほんのわずかに、波紋を描くように揺れた。清明にとっては、その微小な地殻変動だけで、世界のすべてを手に入れたに等しい報酬だった。凍てついていた魂の底が、温かな灯火で満たされていく。彼の薄い唇から、自然と柔らかな微笑みが零れ落ちた。
「伴侶として満足させるのは当然だ」
至極当然の義務を告げるようにそう言い放つと、清明はこはくの手を優しく引き寄せた。唇を重ねるという生々しい儀式の代わりに、そっと、互いの精神を融け合わせるように額を重ね合わせる。
互いの距離が無くなる、その絶対的な境界のなかで、混ざり合う穏やかな温もりを静かに、深く味わう。
「他の者に譲る気はない」
二人の至福の空間を引き裂くように、低く、苦々しい声が容赦なく割って入った。
「……お前は、もう少し『慎み』という言葉を覚えろ」
重ねていた額をゆっくりと離し、清明は邪魔者を見る目で道満を振り返った。そこに、相手をからかうような不真面目な意図は一片も存在しない。
「慎んだ結果が生前だ」
「人間の寿命という一生分、私は順番を踏んだ。今さら遠慮する理由がない」
そのあまりにも重く、そして狂気に満ちた正論を突きつけられ、道満はもはや返す言葉を失ったように両手で顔を覆い、深い沈黙へと逃避した。清明はその哀れな敗者の姿を冷ややかな横目で見送りながら、再び、自らの世界のすべてであるこはくへと向き直る。
一度包み込んだその細い手は、もう二度と離すつもりはなかった。こはくの耳元へ、滑り込むような静かな声で囁きかける。
「次は私に教えてくれ」
それはもはや、乞い願うような生ぬるい言葉ではなく、魂に刻み込む絶対的な「誓約」であった。
「一番に駆けつける」
指先を、慈しむように優しく撫でる。
「抱える」
華奢な肩へと自らの手を添え、壊れやすい身体をゆっくりと、しかし確実に我が胸へと引き寄せる。
「落ち着くまで離さない」
その腕の中で、こはくの紅い瞳が、また小さく、小刻みに揺れた。その確かな反応を間近で看取った瞬間、清明の胸の奥に、言葉にならない静かな歓喜が爆発するように広がっていく。
ようやく、この手でも届くのだ。かつては触れることすら躊躇われたその領域に、今の自分なら確かに届く。その確固たる実感が、彼の死んだはずの心臓を熱く拍動させていた。
「伴侶として、それくらいは当然だろう」
その余韻に浸る間もなく、道満が吐き捨てるような、呪わしげな声を響かせる。
「まだ伴ってもいないだろうが」
現実を突きつけるその意地悪な指摘に、清明は怒るどころか、むしろ愛おしそうにその笑みをさらに深く刻み込んだ。
「では、これからだな」
そう答えて、これから紡がれるであろう甘美な未来の図を頭の中に思い描くことは、今の清明にとっては、あまりにも自然で、何一つ疑う余地のない確定した真実であった。




