知る前にはもう戻れない
死という名の不条理な絶対境界を越えてなお、清明という男の魂の深部にあるものは、自分でも驚くほどにどこまでも静かで、凪いでいた。
かつて道満から「一度踏み込めば二度と戻れなくなる」と忌むべき警告を告げられた時も、その胸に恐怖や動揺の影が兆すことは微塵もなかった。
むしろ、彼の魂の底へと吸い込まれるように落ちていったのは、驚くほど穏やかで、すとんと腑に落ちるような納得感だけだった。
――戻れない。
その冷酷な宣告は、彼を脅かすための呪詛などではなく、清明という一個の存在の生き様を、そのまま寸分違わず言い当てているようにしか思えなかったからだ。
「……本当に、戻れない」
静まり返った回廊で、自分でも気づかぬうちに、その確信に満ちた言葉が唇から滑り落ちていた。
まさに、その直後の出来事だった。
腕の中にすっぽりと収まったこはくの身体は、まだ狂おしい熱を帯び、彼の肌をじりじりと焦がし始める。
胸を伝って直接魂へと流れ込んでくる力は、確かに深く、昏い。
己の存在そのものを根底から侵食し、奈落の底へと引きずり込もうとする、すさまじい力だった。
それでも、獄卒としての新しい肉体はびくともせず、壊れる気配すらない。
(――そうか)
これだったのか、と。
あの偏屈な道満が、何十年もの間、分け合うことなく抱え続けてきた、世界の真実。
これほどまでに静かで、これほどまでに深く、それでいて一度触れて熱を溶かし合ってしまえば、二度と触れる前の平穏な日々には戻れなくなるほどの、甘美な力だったのか。
その時、石造りの回廊の向こうから、激しく大気を震わせる荒い足音が響き渡った。
振り返る必要すらなく、それが誰の足音であるかは一瞬で分かった。
――道満だ。
息を切らし、普段の不遜な仮面をかなぐり捨てて、焦燥を隠そうともせずにこちらへと駆けてくる。
その必死な姿を視界に収めた時、清明は彼の胸の内を察し、少しだけ申し訳ないような、奇妙な気安さを覚えた。
きっと、この男は死に物狂いで急いできたのだ。
自分が味わったかもしれない破滅に、何としてでも間に合わせようとして。
「……遅かったか……!」
清明は、腕の中にいるこはくを優しく支えたまま、静かに顔を上げた。
ただじっと己を睨みつける道満を見つめ返し、極めて自然に、心からの言葉を口にする。
「お前の言っていたことが分かった」
その言葉を聴いた瞬間、道満の肩の力が抜け、この世の終わりを悟ったような深い溜息を吐き出した。
「……そうか」
その諦念に満ちた声を聞いて、清明は静かに頷いてみせる。
「確かに、戻れない」
一度その蜜のような繋がりを知ってしまえば、もう二度と、知らなかった頃の距離感には戻れないのだ。
だが、不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ、あの過酷なこはくの乱れを、ようやくこれからは自分自身の手で引き受け、支えてやれるのだという圧倒的な安堵感が、清明の胸を満たしていた。
彼は、腕に収まる彼女の身体へ、愛おしさを込めて少しだけ力を込める。
「だが、なるほど」
その柔らかな温もりを手のひらで確かめながら、静かに、しかし断固としたトーンで告げた。
「次からは私が対応する」
愛する人を支えられるだけの器があるなら、支える。
ただ、それだけのことだ。
だが、正面に立つ道満は、まるで理解不能な化け物でも見るかのような、心底信じられないという顔をして清明を見つめていた。
「何だと?」
「今の私なら受けられる」
「落とせる」
「支えられる」
自らの器に馴染んだ感覚を一つずつ確かめるように、理路整然と言葉を並べていく。
「なら次からは私がやる」
道満は静かに目を閉じ、頭痛に耐えるように額を押さえた。
「貴様な」
「何故そうなる」
その、魂の底から絞り出されたような問いに対しても、清明はやはり不思議そうに首を傾げるだけだった。
「何故も何もないだろう」
心底、本気でそう思っていた。
「支えられるなら支える」
「受けられるなら受ける」
「他に何がある」
自分はそうやって、何十年という生涯をただ一途に、生真面目に貫いてきたのだ。だから、肉体が獄卒へと変わった今であっても、やるべきことは何一つ変わらない。
道満は激しい苛立ちとともに何かを言い返そうとしたが、結局、言葉を失ったように口を閉ざした。
その式神としての苦渋に満ちた姿を冷静に見つめながら、清明は静かに言葉を重ねる。
「お前がずっとやってきたことだろう」
「私がやるだけだ」
その静かな、しかし確信に満ちた反論に、道満はぐうの音も出ないように言葉を詰まらせた。
どうやら、自分は論理的に何一つ間違ったことは言っていないらしい。
清明は、腕の中にいる最愛のこはくへと視線を落とした。
その肌には、先ほどの狂暴な熱の残滓が、まだ幽かに残っている。
彼は長い指先でそっと彼女の頬に触れ、熱が静かに引いていくその変化を確かめる。
本当に、不思議な感覚だった。
戻れない領域に踏み込んだというのに、恐怖や後悔などは微塵も湧かず、ただ、この愛しい存在を自分のすべてを賭して守り抜きたいという、清らかな想いだけが胸の奥へと満ち満ちていく。
彼の唇から、自然と甘やかな本音が零れ落ちた。
「伴侶にするなら、このくらいは当然だ」
道満の全身が、彫像のように固まった。
「……は?」
その、呆気に取られた間抜けた反応の意味が分からず、清明は不思議そうに顔を上げた。
「前から言っているだろう、私はこの方を伴侶にしたい」
現世で出会ったあの日から、何十年が経とうとも、一瞬たりとも変わることのなかった、彼にとっての唯一無二の悲願だ。
「なら、他の者に触れさせたくないと思うのは自然だ」
人間であった頃は、どれほど焦がれようとも、それが物理的に叶わなかった。
道満は、完全に言葉を失って立ち尽くしていた。
やがて観念したように額を深く押さえ、ひどく掠れた声で小さく呟く。
「貴様……」
「一番早くそこへ行き着くな……」
その、呆れ果てた言葉の意味が分からず、清明はやはり生真面目に首を傾げた。
「そうか?」
すると珍しく、道満が我慢の限界を迎えたように声を荒らげた。
「そうだ!」
思わず、清明は目を丸くしてパチパチと瞬かせた。
「そこはせめてもう少し段階を踏め!」
その言葉を聞いて、清明は自らの歩んできた軌跡を、少しだけ真面目に振り返ってみた。
段階なら、これ以上ないほど丁寧に、執念深く踏んできたつもりだ。
それこそ、何十年という、人間の一生を丸ごと使い果たすほどの途方もない歳月をかけて。
だからこそ、彼は少しも臆することなく、正直に答えた。
「踏んだだろう、何十年も!」
道満は、今度こそ完全に絶句した。
この愛の積み重ねは、あの懐かしい現世から、地獄という境界を越えて今も途切れず、真っ直ぐに続いている。
今日、この奈落の底で突然芽生えたような軽い想いなどでは決してない。
何十年もの間、胸を焦がし、抱え続けてきたあの誓いの、ごく自然な『続き』に過ぎないのだ。
清明は、腕の中に抱くこはくを、愛おしそうに見つめた。
何一つ変わらない、焦がれ続けた美しい横顔。
その不変の姿を瞳に映しながら、清明は改めて、自らの魂にその誓いを深く刻み直す。
「今さら他の者に任せる気はない」
紡いだその言葉には、一片の虚飾も、迷いもなかった。
それが今の自分に許された特権であるならば、もう誰に対しても遠慮をする理由など、どこにも残されていないのだから。
道満は、諦めたように長く、重い息を吐き出していた。
その疲れ切った式神の様子を見て、少しだけ気の毒に思わなくもなかったが、だからといって自分の決意や考えを今さら変えてやるつもりは、毛頭なかった。
そして、それからのことだった。
清明がこはくに対して紡ぐ、愛の言葉の「質」が、少しずつ、しかし確実に変化していったのは。
――伴侶。
人間として生きていた頃は、いつか潰えるかもしれない儚き願いに過ぎなかったその言葉が。
死を越えた今、二人の果てしない永遠の未来として、清明の胸の奥深くへと、静かに、そして誰にも引き抜けないほど強固に、根を下ろしている。
急ぐ必要は、もうどこにもない。
彼らの手元には、無限という名の、贅沢すぎる時間がたっぷりと残されているのだから。
そう確信できることが、清明にとっては、地獄の何よりも幸福で、愛おしい日常だった。




