*清明、こはくの力を知る
※直接的な性描写はありませんが、連想させる表現があります。
その不変の気配が急激に崩れ去ったのは、本当に、瞬きをひとつするほどの一瞬のことだった。
すべてを吸い込むように静まり返った地獄の回廊。
薄暗い灯火だけが石畳をぼんやりと照らす、薄暗い石廊の途中で、それまで清明の半歩先を歩いていたこはくの足がふいに止まる。
そして、かすかに胸を震わせる呼吸が、ひとつ、不自然に途切れた。
長年その一挙手一投足を見つめ続けてきた清明は、ただそれだけの一拍の違和感で顔を上げた。
「――こはく」
呼びかけに応じて振り返った瞳は、いつもと違って、霧が立ち込めたように焦点がわずかに浅い。
その揺らめく赤い視線が、かろうじて清明の姿を捉えたまま、細く冷たい息を吸い込んだ。
「……っ」
細い肩が、大きく揺れる。
次の瞬間、その身体から一切の張力が失われたかのように、膝が折れて床へと落ちた。
清明は反射的に両腕を前へと差し入れる。
そのまま自らも片膝をついて、倒れ込む体重を支えた。
その身体は、羽毛のように軽い。
だが、抱え込んだ瞬間に、彼の五感のすべてにすさまじい衝撃が走った。
(熱い――)
内側が、狂ったように熱い。
冷徹な皮膚の下を、制御を失った悍ましい何かがのたうち回り、走っているかのように、こはくの身体は小刻みに、かつ激しく震えていた。
「……乱れてるな」
地獄の冷気を裂くように、低く言う。
こはくから返事はない。
代わりに、白い喉元がひくりと小さく震えた。
「っ、……ぁ」
吐き出される息がひどく浅い。
けれど、完全に荒れ狂っているわけでもない。その、一線の手前で踏み留まろうとする不完全な半端さが、かえって寸前の危うさを物語っていた。
清明の腕の中で、こはくの白磁の指先が、何かの痙攣のようにびくりと大きく跳ねる。
何か縋るものを求めるように、清明の衣服の裾を掴みかけ――けれど、それを自制するように掴み損ねて、虚空を泳いだ。
清明は、一瞬だけ胸の呼吸を止めた。
脳裏を掠めたのは、あの静かな書庫で道満が吐き捨てるように警告した言葉だった。
――お前は手を出すな。戻れなくなる。
(――遅い)
己の腕の中で、苦しげに震えるこの小さな身体を見た瞬間に、そんな警告も、未来の破滅も、何もかもがすべて、もう遅すぎるのだ。
「……道満は来ないな」
呼んで奴をここに連れてきたところで、もう間に合いはしない。
こはくの身体が、もう一度大きく揺れた。
「っ……、ぁ……」
喉の奥で、暴れ狂う熱を自らの意志で噛み殺すような、かすれた息が漏れ出す。
清明は一瞬の躊躇いも持たなかった。
片腕で細い背中をしっかりと支え、もう片方の大きな手で、熱を放つ白い頬へとそっと触れた。
指先を焼くほどの、異常な熱だった。
「私を見ろ」
こはくの赤い瞳が、激しく揺れ動く。
焦点の鈍い、潤んだ赤が、必死に清明の輪郭を探すように向く。
「そうだ。こっちを見ていろ」
熱に浮かされる頬を手のひらで支えたまま、親指の腹で、その潤んだ目元をやさしく撫でる。
呼吸が、ひとつ、細かく震えた。
「……っ」
細い肩が大きく跳ねる。
自分の接触に対して、確かな、かつてないほど敏感な反応が返る。
それを見届けると、清明は深く己の呼吸を整え、呪力を腹の底に据えた。
余計な欲を挟むな。
まずはこの熱を、己の内に引きずり落とす。
この手で、すべてを支え切る。
腕の中へ、その軽い身体を強く抱え直す。
背中を自らの胸へとぴったりと預けさせ、その体温も、震えも、体重のすべてを自分が引き受けるように抱き寄せた。こはくの身体が電流が走ったようにびくりと震え、喉の奥から、せき止められなくなった熱い吐息が零れ出た。
「ぁ、……っ」
「大丈夫だ」
耳元で、包み込むように低く言う。
「力を抜け」
最も敏感な喉元へは、あえてまだ触れない。
まずは緊張で強張る肩、そして首筋の横。
道満から生前に散々聞かされていた、感覚をなぞるように、熱の逃げ道を探るようにして、ゆっくりと滑らせるように指を滑らせていく。
その指先がわずかに首筋に触れた途端、こはくの身体が、弾かれたように跳ね上がった。
「っ、ぁ……!」
美しい背が、弓のように小さく反る。
清明の頑強な腕の中で、指先が激しく強張り、細かく震え続けた。
清明の喉が、引きずられるようにひくりと鳴った。
自分の指先ひとつで、この不変の主が反応する。
こんなにも、艶やかに。
だが、今はその姿を見るな。その快楽に呑まれるな。
「……いい、返してくれ」
掠れた声で、自分に言い聞かせるように言う。
自分の紡ぐ声が、いつの間にか湿っぽく掠れているのが、自分自身でもはっきりと分かった。
首筋をなぞるようにかすめ、耳の後ろの繊細な部分へ。
そこから再び、熱に染まった頬へと戻る。
意識を失わせないよう、視線を自分から逸らさせないよう、指先でその美しい顔の輪郭を丁寧になぞり続けた。
「私を見ていろ」
こはくの瞳が、さらに激しく揺れ動く。
熱に滲み、ぼやけながらも、それでも懸命に眼前の清明の姿だけを映し出している。
「っ……、は……」
吐き出される吐息が、浅く、熱く震える。
その、こはくの小さな吐息のすべてが、まるで上質な呪毒のように清明の喉元を甘く焼いていく。
腕の中の身体は、まるで痙攣するように細かく震え、時折、大きな熱の波が走るようにびくりと跳ねる。
放出されるべき熱が外に抜け切らず、器の内側で、狂暴に暴れ回っているのが嫌というほど分かった。
「まだ落ちないか」
清明は、焦りを隠すように低く息を吐いた。
その手を取る。
強張って固く握られた指を、一本ずつ静かに開かせる。
震える冷たい掌の隙間に、自らの指を滑り込ませるようにして差し込み、そのまま固く包み込んだ。
そして、親指の腹で、その柔らかな掌の中心をゆっくりとなぞる。
ひとつ。ふたつ。
こはくの喉が、何かに耐えるように大きく震えた。
「っ、……あ……!」
重ね合わせた指先が、びくりと激しく跳ねる。
清明の手を強く握り返すでもなく、かといってその熱から逃げるでもなく、ただ震えながら、清明の掌の中でただ純粋に反応し続けていた。
清明自身の呼吸も、いつの間にか乱れ始めていた。
落ち着け、と己に命じる。まだだ、まだ自分は正気を保てる。
掌をなぞっていた指を、そのまま細い手首へと滑らせる。
脈動の代わりに、そこに流れるおぞましい熱の奔流を探り当てるようにして触れ、そこから彼女の腕を、遡るように撫でた。
再び、肩口へと戻る。
背中を支える腕にさらに力を込め、この世界から決して逃がさないよう、その胸へと強く抱き寄せた。
こはくの身体が、かつてないほど大きく震え上がった。
「ぁ、っ……は……!」
白磁の唇から、せき切ったような熱い息が漏れ出す。
肩が跳ね、喉が震え、背中が小さく反り返る。
その肉体が放つあまりにも生々しい反応のすべてが、清明の胸の奥、魂の最も深い場所へと、直接、稲妻のように響き渡った。
「……っ、そうだ、返せ」
限界を迎えた声が、低く掠れる。
「そのまま、こっちへ」
自身の喉までが、何かを求めるようにひどく熱い。
己の境界が融解し、自らの身体までもが、その深淵へと引きずり込まれていくのがはっきりと分かった。
腕の中から、悍ましくも甘美な熱の奔流が、堰を切ったように流れ込んでくる。
皮膚の下へ。骨の奥底へ。
それは生前のどんな高度な術式でもない、もっと直接的で、魂を直接汚染するような何かが、濁流となって自らの器へと入り込んでくる。
清明の、強靭なはずの肩が大きく震えた。
「――っ、は……!」
肺の空気が引き抜かれ、呼吸が激しく乱れる。
遅れて、熱を吸収した自らの指先までが、自分の意志に反して細かく震え始めた。
背筋がぞくりと悍ましいほどの興奮で粟立ち、抱えた腕が、恐怖と歓喜で小さく強張る。
(――これか)
と、熱に浮かされる頭のどこかで、彼は理解した。
かつて道満が、一度触れれば二度と戻れないと言ったものの正体。
こはくが、現世の彼を壊さぬようにと生前には決して許さなかった、力の深淵。
清明の喉が、熱に焼かれて震える。
「……っ、く……」
それでも、抱きしめる腕の力を緩めることだけは、決してしなかった。
こはくの身体が、最後の一際大きな波紋を打つように、もう一度大きく跳ね上がった。
喉の奥から、もう押し殺しきれなくなった熱い吐息が、艶やかに漏れ出す。
「っ、ぁ……あ……!」
その瞬間、せき止められていたすべての熱が、一気に清明の身体へと流れ込んだ。
清明の背中が、すさまじい快感と衝撃で震える。
視界が万華鏡のように揺らめき、瞬時に歪む。
呼吸が完全に詰まり、喉の奥で、暴虐的な熱が爆ぜた。
「――っ、ぁ、は……!」
こはくを強く抱きしめたまま、清明の身体までが大きく震え上がった。
指先が、自らの意志を無視して痙攣する。
背筋が粟立つ。
腹の底が、まるで黒い炎を直接呑み下したかのようにひどく熱い。
その直後、腕の中のこはくがびくりと一度跳ね、すべての強張りを解くように、ふっと力を抜いた。
荒れ狂っていた熱が、急速に冷めて落ちていく。
その崩れ切る直前の身体を完全に抱え込み、清明は、愛おしいその存在を己の胸の中へと強く引き寄せた。
互いに、激しい運動をした後のように息が荒い。
こはくは清明の胸に顔を埋めたまま、細く、熱い呼吸を繰り返し、華奢な肩を小さく震わせている。
清明もまた、焼かれたような喉を震わせ、どうしても呼吸を整え切れないまま、その軽すぎるはずの身体を、ただ必死に抱きしめ続けていた。
「……っ、は……」
掠れた、獣のような息が唇から漏れ出る。
腕の中にある重みは、相変わらずひどく軽い。
だが、今の清明にとっては、世界のすべてを合わせたよりもひどく、重かった。
清明の指先が、熱の余韻に支配されて、遅れてガタガタと震え出す。抱えた自らの腕が、今さらのように小さく痙攣を繰り返していた。
喉が熱い。
胸が引き裂かれるように苦しい。
自らの身体の奥深くに分け与えられた、おぞましい熱がまだ確かに残っている。
(戻れない――)
あの道満の忠告が、今になってようやく、冷酷な真実として骨の髄まで落ちていく。
これを一度知ってしまえば、もう二度と、あのかすかな温度だけで満足していた日々には戻りようがない。
清明は荒い呼吸を乱したまま、腕の中に収まるこはくをゆっくりと見下ろした。
こはくはまだ、胸元で細い息を繰り返している。
透き通るような白い頬は赤く染まり、その瞳は薄く涙で潤み――けれど、現世と変わらぬ絶対的な不変さで、確かに眼前の清明を映し出していた。
その、自分だけを映す熱い視線に、清明の喉がひどく震えた。
「……これは」
掠れた、湿った声でぽつりと呟く。
やはり、指先が震えて止まらない。
抱きかかえた腕が、今さらになって永遠に離したくないと引き絞るように小さく強張る。
「……駄目だな」
これは、もう絶対に引き返せない。
自嘲のような、けれど底知れない恍惚に満ちた呟きとともに、彼はさらに深く、その腕の中にいる愛しい深淵を抱きしめ直した。




