清明、死んでからが本番
清明という男は、この冥府の底へと落ちて初めて、己の胸の奥深くに長年張り詰めていた一本の目に見えぬ糸が、ようやく静かにほどけていくのを実感していた。
生きていた頃は、常に『終わり』という名の暗い影がべったりと張り付いていた。今日、愛おしさに任せてその肌に触れられたとしても、明日の同じ時間に触れられる保証などどこにもない。
いつか訪れる残酷な未来の帳尻を嫌というほど知っていたからこそ、彼はその胸に渦巻く焦燥を誰にも悟られぬよう奥底へと押し込み、慎重に、静かに、氷の上を歩くように一歩ずつ歩みを積み重ねてきた。
だが、彼を縛り付けていたその前提は、死という通過点を経て完全に消え去った。
獄卒としての新たな肉体を与えられた時、彼の魂が最初に覚えたのは、深く静かな安堵だった。
――もう、急がなくていいのだ。
そのあまりにも絶対的な事実が、長年の間背負い込み続けていたものを一つ残らず取り払ってしまった。
残された寿命の砂時計を、怯えながら数える必要もない。
今日が終わりを迎えても、岩が擦り切れてなくなるまでのような長い時間が続いている。
だからこそ彼は、その長い生涯の中で初めて、現世の義務も恐怖もすべて脱ぎ捨て、己の心のままに歩いてもいいのだと、自分を許すことができた。
地獄に落とされて間もなく、黒い石畳の向こうにこはくの姿を見つけた時。その、現世のあの日と何一つ変わらぬ凛とした佇まいを目にして、彼の胸の隙間は、静かな幸福感で満たされていった。
現世において、薄れゆく視界の最後に焼き付けた、あの愛おしい背中。
己の命の灯火が尽きるその直前まで、寝台の上で見つめ続けた、あの焦がれるような姿が、何一つ色褪せることなく目の前にある。
(ああ、それだけで十分だ)
それ以上の奇跡など、この死の国に望む必要はどこにもないと思えるほどに、彼の心は凪いでいた。
だからこそ彼は、ごく自然に、引き寄せられるようにその細い手を取った。
生前、息も絶え絶えになりながら寝台の上で何度も何度も繰り返していた、身体に染みついた愛の癖のままに。
その白磁のような細い指先へと、自らの新しい指をそっと重ね合わせる。
一本ずつ、壊れやすい硝子細工を扱うように優しく撫で、その掌の温もりを包み込んでいく。
こはくは相変わらず、その侵食に対して手を引き抜こうとはしない。拒絶の術を放つこともしない。
その静かな、言葉のない許しが、死に絶えた己の魂にとってどれほど嬉しかったことか。
「今はこれでいい」
触れ合う体温の確かさに、静かに、掠れた言葉が零れ落ちる。
「急がなくて済むのは、思ったより贅沢だな」
期待通りの返事はない。
けれど、その深く心地よい沈黙の中には、生前と何一つ変わらぬ幽かな温度が確かに息づいていた。それだけで、現世で乾ききっていた心は信じられないほど満たされていく。
人間であった頃は、その愛おしい沈黙さえも、いつか自分を置いて失われる日が来るのではないかと心のどこかで恐れていた。
だが、死者となった今は違う。
彼らの世界の終わりは、もうどこを探しても見当たらない。だからこそ、一歩を急ぐ必要などどこにもないのだ。
少しずつ、ゆっくりと、何百年、あるいは何千年という歳月をかけて、この回廊を共に歩めばいい。
そう確信できること自体が、彼にとっては生前の何よりも幸福なことだった。
地獄へ来て三日も経てば、かつて何度も飲み込んできた「好きだ」という誓いの言葉は、また自然に、呼吸と同じ軽さで口をついて出るようになっていた。
それは決して、若き日のような燃え上がる勢いでも、一時的な感情の衝動でもない。
何十年という長い歳月の中で、現世の底へ深く深く積み重ねてきた想いが、ただ地獄の空気に合わせて形を変えただけのことだった。
「また会えて嬉しい」
その言葉の響きにも、今さら何一つ飾り立てるような嘘はなかった。
まるで、昨日の夕暮れの続きをただ話しているかのように。
二人の間に横たわっていたはずの、何十年という残酷な老いと死の空白など、最初から存在しなかったかのように微笑む。
こはくは何も言わない。
それでも、その硝子のような赤い瞳は、真っ直ぐに自分という存在だけを映し出している。
術師としての、あるいは男としての彼にとっては、それだけで十分すぎるほどの報酬だった。
一か月という時間が、地獄の砂時計を滑り落ちる頃には、彼の大きな手はごく自然に細い肩へと伸びるようになっていた。
互いの吐息が届くほど近い距離で、その変わらぬ美しい顔をじっと見つめる。
「今日も会えたな」
ただその一言を交わすだけで、魂の底から満たされるのを感じていた。
こはくは、やはり変わらない。
静かに回廊に立ち、ただじっと自分を見つめ返している。
その圧倒的な不変さが、死した彼にとってどれほど救いだったことか。
ふと、自嘲気味でありながらも幸福に満ちた笑みが零れる。
「死んだのだから、このくらいは許されるだろう」
そこには高尚な理屈など存在しない。
ただ、生きている頃にはどうしても手が届かなかった絶対的な安堵が、ようやく彼を素直にさせ、その心を解放してくれているだけだった。
遠くの廊下の影で、道満がこの世の終わりを見るような呆れ果てた顔をしていることにも、清明はとうに気づいていた。
その鋭い視線も、大気を震わせる盛大な舌打ちも、重いため息も。
生前、屋敷の庭で繰り広げられていたものと何一つ変わらない、懐かしい光景だった。
主人の背中で、思わず可笑しそうに苦笑が浮かぶ。
きっと式神の彼から見れば、自分は死んで現世の重枷を外された結果、ますます手の付けられない始末の悪い男に成り下がったのだろう。
――否定はできない。実際、その通りなのだから。
だが、不思議なほど道満に対して申し訳なさや引け目を感じることはなかった。
何十年もの間、途方もない孤独と戦いながら、諦めずに歩き続けた暗闇の先に、ようやく辿り着いた約束の場所なのだ。ここで今さら、誰に対して遠慮をする理由が残されているというのか。
接触のたび、こはくの赤い瞳が、湖面に落ちた一滴の雫のように小さく揺れる。
生前、あの薄暗い寝台の傍らで、何度も何度も愛おしく見つめていたあの揺らぎ。
それが現世と変わらず、今も確かにそこにあるという事実が、死者の冷えた胸を熱く焦がす。
「ああ、ちゃんと覚えていてくれた」
愛おしさが限界を越え、思わず唇から笑みが零れ落ちる。
それは脳の記憶などという浅いものではない。
もっと魂の深い場所で、互いに何十年もかけて積み重ねてきた愛の時間が、確かに消えずに残っている。
そう信じたくなるほど、その美しい瞳は、彼の情熱に対して静かに応えてくれていた。
だからこそ彼は、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳で、無限の未来の約束を口にする。
「今度は前より長く口説く」
「前は人の一生だった」
穏やかな微笑みを唇に湛えながら、捕まえて離さないこはくの指先を、そっと、慈しむように撫でる。
「今度はもっと長い」
こはくは、変わらず無言のままだ。
それでも構わない。その拒絶のない沈黙ごと、すべてを愛おしく受け入れられるようになったのも、この終わりなき永遠の時間という盾があるからだ。
だから彼は最後に、現世の執務室で見せていたような、悪戯っぽくも不敵な笑みを静かに浮かべた。
「覚悟してくれ」
その穏やかな言葉には、もはや生前のような焦りも、独占欲に駆られた見苦しい執着もなかった。ただ、この果てしない永い時を、共にどこまでも歩んでいきたいという、魂に刻まれた変わることのない純粋な願いだけが、深く込められていた。




