急がない恋
地獄での膨大な仕事を一通り押しつけられたあと、清明は閻魔からの案内も、道案内の一言もなく、ただ広い地獄の回廊へと放り出された。
「その辺歩いてりゃ会うだろ」
あまりにも雑で放任主義な言い方だったが、今の清明には、それが妙に納得のいくものでもあった。
この場所へ来るのは初めてではないのだ。たとえ脳が忘れていても、魂がその経路を覚えているのなら、この両足も勝手に進むべき方向を覚えているのだろう。
実際、清明の足取りに迷いはなかった。
見覚えのないはずの暗い道を、まるで毎日通っているかのように正確に歩いていく。
黒光りする無骨な石畳。肌を撫でる冷えた空気。
音を吸い込むような、どこまでも広い静寂の廊下。
生者の世のような騒がしさの一切ない、どこまでも静かな地獄の気配は、戦いに明け暮れた生前の日々よりも、ずっと彼の心を落ち着かせた。
奇妙な話ではあるが、生きていた頃よりもずっと息がしやすい。
清明は自嘲気味に薄く笑う。
「死んだ実感が薄いな」
ぽつりと独り言のように呟き、おもむろに角を曲がる。
その瞬間、彼の足が、地面に根を張ったようにぴたりと止まった。
廊下の先。仄暗い闇に向かって大きく開けた、回廊の向こう。
薄暗い地獄の灯火に照らされて、そこに、彼が何十年も追い求め続けた見慣れた姿が佇んでいた。
――こはくが、いた。
何一つ変わらない、あの完成された作り物のような姿で、欄干のそばに静かに立っている。
ただそこにいるだけ、息をしているだけなのに、世界の何よりも鮮烈にその存在を主張していた。
清明は、数十年という歳月をかけて、己の網膜に焼き付けてきたその愛おしい背中を見つめたまま、しばらく身動きが取れなくなった。
生前、薄れゆく意識の中で、最後に見た背中。
寝台のそば。最期の呼吸の向こう側。
あの時、現世の最後に視界に残った美しい影が、今、再び目の前にある。
(ああ、私は本当に死んだのだな)
その光景を目にして、彼はようやく、自分が現世を去ったのだという事実を実感した。
死んだのだ。そして、死んだからこそ、またこの場所に巡り合い、会うことができた。
清明は深く、胸の奥の澱みを吐き出すように静かに息を吐く。
それから、老いによって衰えていた頃とは違う、若い頃のあの力強く、淀みのない足取りで一歩一歩踏み出し、彼女へと歩み寄った。
「迎えに来てくれたわけではないか」
静寂を揺らすように、声をかける。
こはくが、ゆっくりと振り返った。
その不変の赤い瞳が、まっすぐに清明の姿を捉える。その射すような視線を受け止めた瞬間、清明の顔に、現世の最後に見せたような穏やかな笑みが浮かんだ。
「やっとまた会えた」
まるで、ほんの少し席を外して、また戻ってきただけのように気安く言う。
生死の境という、絶対的な断絶を越えた再会にしては、それはあまりにも自然で、日常に溶けた声だった。
こはくは何も言わない。
だが、その場から去りもしない。ただじっと彼を見つめている。彼にとっては、それだけで十分すぎるほどの答えだった。
清明は歩みを進め、こはくが立っていた回廊の欄干へと自然に身体を寄りかからせ、その隣へと並んだ。
「死んで最初に会う相手があなたなら、悪くないな」
横目で、隣に佇むこはくの横顔を覗き込む。
変わらない。何一つ、現世で出会ったあの頃から変わっていない。
瑞々しく若いままの美しい顔。
すべてを見通すような、静かな眼差し。
生前、執務室でいつも保っていたのと同じ、近すぎず遠すぎない距離。
そして、心地よい同じ沈黙。
自分は何十年もの歳月をかけて老い、醜く衰え、そして死んで、ようやくここに辿り着いてまた並んだというのに、こはくだけが何一つ変わらぬままそこにいる。
その圧倒的な不条理が、かえって無性に可笑しくて、清明はふっと喉を鳴らして少し笑った。
「やっぱり不公平だ」
こはくは変わらず無言だ。清明はその鉄壁の沈黙すら、愛おしい故郷に帰ってきたかのように懐かしみながら目を細める。
「だが、また会えたから許そう」
そう言って、彼はあまりにも自然に手を伸ばした。
生前、寝台の上で幾度となく繰り返した、身体に染みついた癖のままに、こはくの滑らかな手へと指先を触れさせる。
それはもう、あの不自由な老いた手ではなかった。
痩せ細ってもいないし、微かに震えてもいない。
生者の持つ燃えるような熱も、死者が纏う氷のような冷たさも、そのどちらもが曖昧に溶け合った、こはくという存在だけが持つ特有の、愛おしい温度。
清明はその手をしっかりと、しかし優しく包み込み、静かに笑った。
「今度は最後まで離さなくて済むな」
その強い言葉に、こはくの瞳が、ほんのわずかに動揺を孕んで揺れる。
清明はそれを見逃さず、愛おしさに胸を締め付けられながら、すぐに口元を和らげた。
「そういう顔も、久しぶりだ」
愛おしさを確かめるように、指先でその白い手の甲をそっと撫でる。
その触れ方には、生前の戦々恐々とした焦りはなく、どこまでも迷いがなかった。自分たちにはもう、時間切れという残酷な結末など訪れないのだと、すべてを理解している男の、余裕に満ちた触れ方だった。
決して急がない。
慌てて奪おうともしない。
だが、拒まれることを恐れるような遠慮もしない。
「死んだのに、最初に思ったのは安心した、だった」
地獄の底に響くような、静かな声で言う。
「また会えると思った」
こはくは何も言わない。清明は構うことなく、溢れ出る想いを言葉に変えて紡ぎ続ける。
「生きている間は、どうしても先が見えていたからな」
「先に死ぬ。老いる。触れられなくなる。置いていく」
指先を強く絡めるでもなく、ただ愛おしい宝物を守るように、その手を大きく包み込む。
「だが今は違う」
低く、そして深く穏やかな声だった。
「今度は急がなくていい」
こはくの赤い瞳が、再び、惑うように揺れる。清明はそれを見るなり、ほんの少しだけ自らの身体を傾け、彼女の方へと身を寄せた。
「だから改めて口説こう」
現世で何度も繰り返した愛の言葉を、あまりにも自然に、当たり前のように告げる。
「また最初から、好きだ」
こはくは無言のままだ。
だが、その小さな手は、清明の掌から引き剥がされることはない。清明はその心地よい沈黙を、何よりの極上の返答として受け取るように優しく笑う。
「返事は急がなくていい」
生前と違って、今の二人には、本当に永遠とも呼べる時間が残されている。もう急ぐ必要など、どこにもないのだ。
これ以上、老いることはない。
二度と、死によって引き裂かれることもない。
この穏やかな時間が、終わることもない。
だからこそ清明は、生前よりもずっと穏やかに、そして生前よりもずっと深く、想い人の領域へと踏み込んでいくことができる。
こはくの手を自分の胸元へと引き寄せ、その滑らかな手の甲へと、愛おしそうに己の額を寄せた。それは口づけですらない、ただの接触。けれどそれは、生前のどんな抱擁よりも親密で、濃密な距離だった。
「今度は何十年でも待てる」
手の甲に額を当てたまま、低く囁く。
「何百年でもいい」
ゆっくりと顔を上げ、まっすぐに、逃がさないようにこはくを見つめる。
「その代わり、前よりずっと口説くぞ」
赤い瞳が、静かに清明の情熱的な姿を映し出している。
こはくは逃げようともせず、拒絶の術を放つこともない。ただ、差し出された真っ直ぐな愛を、静かに見つめ返している。
清明は、心からの幸福に満ちて笑った。
生前、老い先短い肉体でなお口説き続けた時よりも、ずっと穏やかに。だが、あの頃の焦燥など微塵も感じさせない、よほど余裕のある不敵な顔で。
「まずは手からだな」
そう言って、捕まえたこはくの指先を一本ずつ愛おしそうに撫でる。
「次は抱く」
さらりと、恐ろしいほどの執念を込めて言う。
「今度は止められても、時間はたっぷりある」
その、永遠の愛を誓う甘やかな空間の余韻を叩き潰すように、背後から、大気が震えるほどの盛大な舌打ちが響き渡った。




