清明の魂
清明の最期は、驚くほどに静かなものだった。
長年過ごした屋敷の一室、見慣れた格子模様の天井。
枕元に置かれた読みかけの本と、斜めになった窓から静かに差し込む黄昏の光。
その暖かな光が描く陰影の中に、寝台の脇には、彼が最期の瞬間まで視界に留め続けた見慣れた影が佇んでいた。
こはくは、まるで最初からそこに縫い付けられているかのように、いつもの無言でそこにいた。
何も言わず、ただ浅い呼吸を繰り返す清明のそばに座り、命の灯火が消えかけるその手を取り続けている。
老いた術師の指先は細く、木枝のように骨ばって、もうこはくの手を握り返すほどの力さえ残されてはいなかった。
それでも清明は、皮膚の隙間から命が零れ落ちていくようなその最期に至っても、こはくの手を決して離そうとはしなかった。
「……最後まで来てくれたな」
喉の奥で鳴るような、掠れた砂のような声で、清明は微かに笑った。
こはくは相変わらず答えない。
だが、その小さな手は引き抜かれることなく、清明の枯れた掌に収まっている。その無言の肯定に、清明は満足そうに少しだけ目を細めた。
「十分だ」
胸の底から絞り出すように、低く、穏やかに言う。
「惜しんでくれとは言ったが……贅沢は言わない」
肺腑を満たす息はもうひどく浅い。
それは若い頃の、世界を震撼させた呪力の息吹よりずっと細く、弱く、今にも途切れそうなほどに切れ切れだった。
それでも最後まで、濁ることのないその両眸がこはくを見つめる熱だけは、あの若き日と何一つ変わっていなかった。
「好きだった」
何十年も前の、まだ青かった日と同じように、ごく当たり前の声で告げる。
「……いや、好きだ」
過去形にした己の言葉をわざわざ言い直して、男は悪戯っぽく小さく笑った。
「最後まで、ずっと」
その言葉が胸に刺さったのか、こはくの硝子細工のような瞳が、ほんの僅かに、湖面のさざ波のように揺れる。
それを見届けると、清明は未練をすべて振り払うように静かに息を吐いた。
「それでいい」
もう十分に生きたとでも言うように、清明はゆっくりと深い闇へと目を閉じる。
その指先は、最期の鼓動が止まるその瞬間まで、こはくのぬくもりを確かに握り締めていた。
人の命というものは、どれほど巨大な足跡を遺そうとも、呆気なく終わる。
一時代を築き上げた希代の術師も。
主を護り抜いた、老いた実直な護衛も。
こはくという不変の存在を、何十年も飽きずに口説き続けたひとりの男も。
その最期はただ、寄せては返す波が引くように、静かに息を止めるだけだった。
あとに残された部屋は、ただひたすらに静かだった。
惜しむ声はない。
涙に濡れた泣き声もない。
ただ、ひとつの偉大な命がその役目を終えたという絶対的な静けさだけが、淡い夕光とともに部屋の隅々へと満ちていく。
こはくは、冷たくなりゆくその手を、夜の闇が帳を下ろすまでしばらく離さなかった。
◇
死という深い眠りの後、清明が再び目を開けた時。
そこは生者の世のいかなる場所とも違う、見知らぬ冥冥たる世界だった。
頭上に広がる空は重く低く垂れ込め、万物の色は墨を流したように薄暗く、立ち込める空気はひどく静まり返っている。
生者が放つ特有の熱気はどこにもなく、吹き抜ける風は骨まで凍てつかせるように冷たい。地の底へと果てしなく沈み込んでいくような底冷えする気配が、世界の終わりまでどこまでも続いているようだった。
間違いなく生まれて初めて見るはずの光景だった。
だが、清明は不思議と戸惑うこともなく、その足を止めることもしなかった。見知らぬはずの冥府の景色が、どういうわけか、己の肉体に妙に馴染んでいくのを感じていた。
凍えるような空気が驚くほど肌に馴染む。
石畳を踏みしめる足裏の感覚が、まるで行き慣れた我が家のように落ち着く。
生者の世にはなかった音のない静けさが、奇妙なほどしっくりと耳に馴染んでいく。
初めて訪れた死の国のはずなのに、彼はひどく“戻ってきた”のだという、確信に近い安堵を覚えていた。
清明は立ち止まり、少しだけ目を細めて周囲を見回す。
「……なるほど」
それは、長年の疑問の答えを手に入れたような、妙に腑に落ちる感覚だった。
その時、静寂を切り裂くように、頭上から聞き覚えのある低い声が響き渡った。
「来たね」
清明が弾かれたように顔を上げる。
威厳に満ちた高い高座の上。
すべてを見透かすように自分を見下ろす、冷徹な視線。
それは明らかに、生者の世界のものではない絶対的な王の圧だった。
閻魔が、生前と変わらぬ傲然たる姿でそこにいた。
清明は一瞬だけ驚きに目を見開いたが、次の瞬間には、パズルの最後のピースが嵌まったかのような妙に納得した顔になった。
「そうか」
小さく息を吐き、自らの死の結末を受け入れる。
「ここか」
閻魔は高座の上で頬杖をついたまま、退屈しのぎの玩具を眺めるように清明を見下ろしていた。
「初めての顔をしないな」
「初めてのはずなんだが」
清明はもう一度、薄暗い地獄の広がりを辺り見回した。
「妙に馴染む」
その言葉に、閻魔は口元に皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そりゃそうだ」
いっそ拍子抜けするほど、気軽な声で言う。
「お前の魂、初めてじゃないからな」
清明がゆっくりと視線を高座へと戻す。閻魔は隠すつもりもないといった様子で、あっさりと言い放った。
「お前の魂は代々、輪廻に戻す前にこっちで使ってる」
清明は一瞬、言葉を失って沈黙した。あまりに壮大な秘密を告げられ、思考の端が微かに揺れる。
「……何?」
「獄卒だよ」
閻魔は実に軽く、当然の権利を行使しているかのように言う。
「裁定補佐、雑務、見回り、諸々。毎度それなりに働いてもらってる」
清明はしばらく無言のまま、その言葉の重みを噛み締めていた。あまりにもあっさりと己の前世の因果を告げられ、いくら聡明な彼であっても、すぐには全てを飲み込めない。
「待て」
珍しく清明が端正な眉を不快げに寄せる。
「初耳だ」
「言ってないからな」
「勝手に使っていたのか」
「便利だからな」
閻魔は悪びれる様子もなく、むしろ愉快そうに肩を揺らした。清明は諦めたように深く息を吐き出す。
だがこれで、この場所が妙に肌に馴染む理由のすべてが分かった。
初めてではなかったのだ。
肉体が滅びるたびに記憶を失っていただけで、自分の魂は何度もこの冷たい石畳を踏みしめ、ここへ来ていたのだ。
生を全うして死に、ここで裁かれ、再び新たな輪廻の輪へと戻るその幕間に、この地獄で働かされていた。それを、気が遠くなるほどの回数、繰り返していたのだ。
だからこそ、この凍てつく空気が馴染む。
このおぞましいはずの景色が、妙に心地よく落ち着く。
初見のはずの絶対的な静けさが、妙に居心地のいい隠れ家のように感じられるのだ。
「……成程な」
清明は低く呟き、自らの運命の輪に苦笑した。
妙に腑に落ちる。初めてのはずの不毛の地に、どうしようもない懐かしさが漂っている理由も、これですべて説明がついた。
閻魔は高座から清明を見下ろし、獲物を見定めたように口の端を吊り上げた。
「というわけで、またしばらくこっちだ」
それはまるで、休暇の終わりを告げる上司のような軽い調子だった。
「輪廻に戻す前に、少し働け」
清明はしばらく黙ってその理不尽な命令を聞いていたが、やがて、生前の彼らしい不敵で、どこか楽しげな笑みを唇に浮かべた。
「死んでも仕事か」
「慣れてるだろ」
「否定はしない」
清明は軽く肩を竦めてみせる。
生前と変わらぬ調子で閻魔と不遜な言葉を交わしながら、彼は再び、深く地獄の空気を胸に吸い込んだ。冷たく、静かで、しかし驚くほど己の魂に馴染む空気だった。
初めてのはずの地獄。だが、彼の魂の根底はすべてを知っている。
ここでまたしばらくの間、生きている頃と同じように、牙を研ぎながら働くのだということを。
清明は静かに息を吐き、引き締まった顔で問いかけた。
「……で」
閻魔の視線をまっすぐに、射抜くように見上げる。
「こはくはいるのか」
そのあまりに迷いのない問いかけに、閻魔は堪えきれないといった風に大声で笑った。




