動けなくなっても心は止まらない
清明は、人間としては長く生きた方だった。
術者として苛烈に生まれ、常人には耐え切れぬほど濃い異形のものを見つめ、深く闇に触れながらも、その精神を大きく壊すことなく、長い歳月をこはくの盾として立ち続けた。
若い頃の剃刀のような鋭さは、年を重ねるごとに濡れた砥石で研ぎ澄まされたような重厚な冴えへと変わり、その護りは誰の手も届かぬほど堅牢だった。屋敷の中では、いつしか誰もが敬意を払う古株の一人として扱われるようになっていた。
だが、どんなに研ぎ澄まされた術であっても、人間の身体という脆い器は、術の冴えよりも先に老い朽ちていく。
ある時を境に、清明は陽だまりの下で長く立っていることすらできなくなった。
一歩の歩幅が狭くなり、やがてその手に、自らの体重を支えるための杖を持つようになり、それでもしばらくは意地を張るように現場へ出向いたものの、やがて時代の潮流に押し流されるように、静かに護衛の役を退くことになる。
最後にその手を血に染めた刀を置いた日も、清明は、まるで明日の天気の話でもするかのように、あまり変わらない顔をしていた。
「まあ、十分働いただろう」
そう言って、枯れ葉が落ちるように軽く笑い、あっさりとその重荷を下ろした。
それからは、屋敷の奥深くにある自室で、静かに流れる時間を過ごすことが増えた。
埃の舞う光の中で古びた書を読み、未熟な若い術師たちへ小言を言い、たまに部屋の前に気配を感じては道満を呼び止め、鬱陶しいほどに真面目な術理の話を交わし、そして部屋を訪れるこはくへは、若い頃と少しも変わらぬ調子で真っ直ぐな好意を口にした。
彼の足が完全に動かなくなってからは、こはくの方が、静まり返った廊下を渡って部屋へ赴くようになった。
それはまるで、最初からこうなる運命を知っていたかのように。人間の一生など、夜空を横切る流れ星のように短いものだと、とうの昔に諦念していたかのように。
清明の部屋は、いつも凪いだ湖のように静かだった。
武具は消え、必要最低限のものだけが残された部屋には、丁寧に整えられた書棚と、主の思考の跡を残す読みかけの本、そして微かに漂う苦い薬湯の匂い。
窓際からは、惜しみなく穏やかな光が差し込み、寝台のすぐそばには、木製の椅子がぽつんと一つだけ置かれている。
そこへ、こはくは音を立てず何も言わずにやってくる。
衣擦れの音さえ消して静かに歩み、扉を開けて、いつものように部屋の空気を震わせながら入り、当たり前のようにそこにある椅子へ腰を下ろす。寝台に半身を起こした清明は、その小さく変わらぬ姿が視界に入るたび、凍土が解けるようにいつも少しだけ笑うのだった。
「来てくれたか」
こはくは答えない。ただ、水底に沈む石のように静かにそこに佇み、決して帰りもしない。
清明はどんなに年を取っても、その魂の核だけは驚くほどに変わらなかった。
顔には歳月の刻んだ皺が増え、漆黒だった髪には雪のような白いものが混じり、痩せ細った指先には隠しようのない老衰が見える。それでも、その目だけは冬の星のように昔と変わらず静かで、真っ直ぐで、そしてこはくを見る時だけは、春のぬくもりを孕んで柔らかく細められる。
「今日も綺麗だ」
祈りのように、変わらず言う。こはくは無言のままだが、それでも清明は拒絶されたとも思わずに気に留めない。
「若い頃から思っていたが、年を取るほど私ばかり老いるな」
冗談めかして、枯れた声を震わせる。
「不公平だ」
こはくは、じっと黙って清明の老いを見つめる。その一切の誤魔化しのない視線を受け止め、清明は愛おしそうに少しだけ目を細めた。
「だが、こうして来てくれるなら悪くない」
こはくの気配に包まれている時だけ、清明の、掠れた声は、さざ波のように少し穏やかになる。
寝台の上でゆっくりと本を閉じ、皺の寄った手を伸ばす。もう昔のように、その細い身体を強引に抱き寄せるだけの腕力は、その腕には残されていない。ただ、指先をわずかに差し出すだけの、壊れ物を労るような穏やかな動き。
こはくはその、微かに震える手を見つめ、ほんの一拍の間を置いてから、自分の滑らかな手を重ねた。清明は、ただその皮膚の冷たさに触れただけで、全てを手に入れたかのように満足そうに笑う。
カサついた指先で、こはくの手の甲をそっとなぞる。
それは、まぎれもない老いた手だった。節が浮き、血管が青く透け、細く、若い頃に世界を圧したあの熱は、もうどこにもないほどに弱い。
それでも、その触れ方だけは、あの頃と完全に同じだった。
決して強く握らない。自分の都合を押しつけない。いつでも逃げ出せる道筋を残したまま、ただ、そこに自分が存在することを示すように触れる。
「好きだ」
静寂に波紋を広げるように、静かに言う。
若い頃の張り詰めた声よりずっと弱く、掠れているけれど、その奥に宿る熱量だけは、あの若き日の炎と何一つ変わらない。
「こうして来てくれるのを見るたび、まだ口説けると思ってしまう」
こはくの赤い瞳が、微かに、ほんの僅かに揺れた。清明はそれを見逃さず、悪戯が成功した子供のように小さく笑う。
「返事はまだか」
冗談めかして紡ぐ言葉の奥には、変わらぬ本気が重く沈んでいる。こはくはやはり無言のままだ。だが、重ねられた手を引き抜こうとは決してしない。清明はそれを見て、かつて戦場で信頼を分かち合った時のように、穏やかに目を細めた。
「まあ、知っている」
深く、低い声が寝室に溶ける。
「あなたはずっとそうだ」
言葉にしない。けれど、拒絶もしない。そして、決してここから去ろうとはしない。それだけで、自分の生涯を賭けるには充分すぎるほどだと、清明はもう長い歳月の中で知っていた。
歩けなくなっても、寝台から身を起こすことすら重労働になっても、清明という男は変わらなかった。こはくが来れば、世界で一番幸福な男のように笑う。手を伸ばす。何度でも、飽きもせずに好きだと言う。
「もう若くないからな」
清明はこはくの小さな手を慈しむようになぞりながら、ふと呟いた。
「抱き寄せるのは難しい」
それでも、その指先は諦めることなく、こはくの手の輪郭をなぞり続ける。
「だから今は、来てもらうしかない」
自嘲気味に、しかし深く愛を込めて少し笑う。
「来てくれるなら、それでもいい」
こはくは変わらぬ無言のまま、寝台のそばの椅子に腰掛けている。
若い頃とは立場が逆転し、今は清明の方が、下から見上げる側になっていた。それでも清明は、自らの衰えを少しも惨めだとは思っていないようだった。
老いて、衰えて、大地を踏みしめて立てなくなってもなお、こはくを見つめるその両眸だけは、あの輝かしい若き頃と何も変わらない光を宿していた。
「次は」
清明が、かすれた声で低く言う。こはくの手を優しく撫でたまま、静かに、一点の曇りもなく笑う。
「次は、私が先に死ぬ」
残酷で、避けることのできない当たり前の理を、まるで明日の約束のように穏やかに口にする。
「その時、少しくらい惜しんでくれると嬉しい」
こはくは何も言わなかった。けれど、その日の夕刻、部屋の影が長く伸びて境界線が曖昧になるまでずっと、こはくの手は、清明の老いた手の中に静かに抱かれたままだった。




