中年になった清明は触り方に余裕がある
清明が中年に差しかかる頃には、屋敷の誰もがもう、自分を止めようとはしなくなっていた。
止められなくなった、と言った方が正しいのかもしれない、と清明は思う。
若い頃は違った。触れたいという気持ちばかりが先走り、教えられたことを一つ覚えるたびに、それを確かめたくて仕方がなかった。距離も、順序も、相手への気遣いも、何もかも手探りだった。
だが長い歳月は、人との向き合い方を教えてくれた。
焦れば届かないこともある。待てば返ってくるものもある。拒まれないことと許されることは違う。それでも、拒まれないという事実には確かな意味がある。
その積み重ねを知った今、清明はもう迷わない。
執務中、こはくが机へ向かっている姿を見つけるたび、静かに歩み寄る。
急に触れれば驚かせる。だから必ず、一度だけ声を掛ける。
返事はなくても構わない。身を強張らせないこと、避けないこと、静かなままでいること。その一つ一つを確かめてから、ようやく彼は距離を詰めた。
「少し借りる」
その一言を挨拶代わりに、自然な所作でこはくを抱き寄せる。
後ろから腕を回し、その華奢な肩口へ自らの額を寄せるのだ。それは自由を奪う拘束ではない。本人が逃げようと思えばいつでも逃げられる。だが、決して逃がさぬ程度には隙のない、濃厚な近さだった。
こはくは拒むこともなく、そのまま淡々と書類に目を落としている。清明の腕に収まったまま、何事もない顔で平然と筆を走らせる。清明は後ろから囲ったまま、低い声を落とす。
「今日も会えて嬉しい」
日々の挨拶のように自然に、けれど芯のある純粋な好意を含めて。
「好きだ」
それはまるで、ついでのように紡がれる。
若い頃とは違い、そこにはもう照れも衒いもない。愛の言葉を口にすることがあまりにも自然すぎて、彼にとってはもはや呼吸の周期と何ら変わらない境地にあった。
「少し冷えているな」
そう言って白い指先を掌で包み込み、温める。
「肩が張っている」
そう言って首筋へ触れる。
その触れ方には一切の無駄がない。押しつけず、強引でもない。だが、拒まれない限りは、何があっても絶対に退こうとはしないのだ。
大人の余裕という防壁がどれほど恐ろしいものか、道満は日々、苦々しい本気さで思い知らされていた。
そして清明は、今なお決して諦めてはいなかった。
こはくの「力の乱れ」だけは、未だに見せてもらえていない。道満が鉄壁となってそれを徹底的に遮り続けているからだ。その一点だけは、何十年経とうが道満は譲る気はなかった。
清明もその意図は十分に察していた。分かっているからこそ、彼は道満にはもう何も聞きはしない。その代わりに、こはく本人へと直接、囁くようになったのだ。それも、完全に二人きりの時間を狙って。
若い頃、道満自身に言われたからだ。――「私の前でやるな、二人きりの時にやれ」と。
清明はそのかつての言葉を、妙に律儀に覚ていた。だから今は、本当に邪魔者のいない二人きりの時にやる。
夜、全ての執務が幕を閉じたあとの自室。
書類を閉じたこはくの後ろから、清明は静かに抱き寄せる。肩へ額を預けて腕の中へ囲い込み、低い声で囁く。
「いつになったら、私に見せてくれる」
こはくは深い無言を貫く。だが、清明は気にしない。
「まだ駄目か」
喉元へと、指先でそっと触れる。相手の反応を確かめるように、けれど穏やかに肌をなぞる。
「次は私の腕の中で」
静かな声だった。冗談のように軽くもなく、重すぎもしない。ただ、いつか訪れる当然の未来を確信しているかのように、言葉を落とす。
「あなたが乱れるなら、次は私が抱く」
こはくはそれを否定しない。その沈黙を、清明は昔から決して「拒絶」とは受け取らない。
頬へ触れ、耳の後ろへと滑らかに指を滑らせる。逃げないことを確認してから、静かにその身体を抱き締めた。
「まだ譲ってもらえないなら、待つ」
低く言う。
「だが諦めてはいない」
こはくの肩へと口づける代わりに、そっと額を寄せる。触れるのはそこまでだ。越えない。だが、決して退かない。
「次は私の番がいい」
静かに言う。
「そろそろ、道満ばかりずるいと思っている」
その頃になると、道満はもう何度も、陰からその甘やかな場面を目撃していた。
二人きりでやれと言い放った結果、本当に二人きりの空間で執念深く愛を囁くようになった男を前に、道満は何とも言えない顔になる。
夜は静まり返っていた。
全ての執務を終えたこはくの自室には、紙をめくる微かな音の残響だけが、かすかに残っている。灯りは低く落とされ、部屋の空気は穏やかで、外の気配は遠く霞んでいた。
その静けさの中へ、清明が音もなく入ってくる。
足音と気配だけで、もう誰であるかが分かる。こはくは顔を上げず、拒絶もしない。ただそれだけの不言の許しを得て、清明は今日も当然のように、こはくのすぐそばへと歩み寄る。
机に向かうこはくのすぐ横へと腰を下ろし、その横顔をじっと見つめた。
「少し触れる」
あらかじめ、先に言う。
返る言葉はない。だが、こはくは本を閉じようとはせず、視線を逸らすこともしない。
拒まれていないことを確認して、清明は静かに手を伸ばした。
まずは髪へ触れる。
指先で一房だけを優しく掬い上げ、するりと流す。頬にかかりかけた髪を、愛おしげに耳の後ろへと掛ける。昔ならただ触れて終わっていた所作を、今の彼はきちんと甘やかな間を置いてなぞっていく。
こはくの視線が、わずかに揺らめいた。
息が乱れることはない。呼吸もいつものように穏やかなままだ。けれど、その奥底に確かな反応が返ってきている。清明はその微小な揺らぎを見逃さない。
「私を見ていてくれ」
低く、穏やかに言う。こはくは無言のまま、ゆっくりと視線を上げた。燃えるような赤い瞳が、まっすぐに清明を映し出す。清明はその視線を受け止めたまま、指先を頬へと滑らせた。
撫でるというほどの圧すらない、ただ肌の存在を確かめるだけの軽さ。皮膚の上をなぞるように、その輪郭を指先でなぞっていく。こはくの瞳が、また小さく揺れた。
「そう」
清明は静かに目を細める。
「それでいい」
指先をそのまま耳の後ろへと滑り込ませる。髪の流れに沿って、ゆっくりと下へと落としていく。だが、喉元へは行かない。そこはまだ、あえて避けておく。
代わりに、首筋の横をかすめるように触れる。その瞬間、こはくの肩が、ごくわずかに揺れた。
逃げない。拒否もしない。だが確かに、そこに反応がある。
清明は笑わない。面白がりもしない。ただ静かに、見つめている。
「息は乱れないな」
独り言のように言う。
「だが、ちゃんと返してくれる」
こはくの瞳が、再び小さく揺れた。ほんの僅かに、光が滲むように。
清明はそのまま手を取った。掌を開かせるように自らの指を滑り込ませ、絡めるでもなく、ただ優しく包み込む。決して強く握りしめることはせず、嫌ならいつでも抜けられる柔らかな力加減で。
親指の腹で、こはくの掌の中心を静かになぞる。一度。ゆっくりと、円を描くように。すると、こはくの指先が、ほんの少しだけ動いた。
「……そういう顔もする」
清明は、どこまでも穏やかに囁く。こはくは無言のままだ。だが、その瞳だけが、静かに揺れている。
それは、驚くほど人間らしい時間だった。
力を抜くためでも、乱れを鎮めるためでもない。何かを一方的に奪うためでも、整えるためでもない。
ただ、触れる。
ただ、その触球に対して静かな反応が返される。
ただ、その反応を受け取る。
それだけの時間。
清明はそれを覚えたのだ。触れ合うとは、こういうことでもあるのだと。
奪わなくてもいい。崩さなくてもいい。たとえ激しく乱れさせずとも、静かに返ってくるものがある。
静かなまま、こはくは確かに応えている。その事実が、ひどく人間らしい幸福感で清明を満たしていた。
指先をそのまま手首へと滑らせる。脈を測るように触れ、そこに熱を確かめる。
速くはない。乱れてもいない。だが、わずかに熱い。
「少し熱い」
言うと、こはくの瞳がまた甘やかに揺れた。清明はほんの少しだけ口元を和らげる。
「大丈夫。今日はそこまでにする」
そう言って、手を離す――ことはせず、そのまま指先だけを軽く撫でた。
名残を残すように。終わりを優しく教えるように。
それからようやく手を離し、代わりにその細い肩へ自らの額をそっと預けた。強く抱き寄せるほどではない、ただお互いの存在に寄り添うだけの重さ。
「あなたは静かなまま、よく返してくれる」
低い声で言う。
「見ているだけで分かるようになった」
こはくは無言のままだ。けれど、その視線は決して彼から逸らそうとはしない。
清明はその瞳を見返したまま、もう一度だけ頬へ触れた。軽く、確かめるように。
「こういう時間も、 嫌いではない」
囁くように言う。
「私は好きだ」
静まり返った部屋の中に、その声だけがしっとりと落ちていく。こはくは何も言わない。ただ、揺れた瞳のまま、じっと清明を見つめ返していた。
それだけで、全てが充分だった。




