第9話_嘘つきたちのクランクアップ
私の肩に額を預けたまま、静かに背中を震わせる長谷川。
いつもスマートで、社内の誰もが憧れる『完璧王子』のそんな姿は、あまりにも脆くて、そして愛おしかった。
――とっくに、俺の完全敗北だよ。
耳の奥に残る彼の告白が、私の胸を激しく締め付ける。
からかわれていたわけじゃなかった。彼も私と同じように、いや、私以上に、この危うい関係に溺れて、余裕をなくして、必死に足掻いていたのだ。
「……長谷川さん」
私が静かに名前を呼ぶと、彼は拒絶されるのを恐れるように、さらに私の肩を掴む手に力を込めた。
「嫌だ、離さねぇ。佐藤さんに戻るなんて言うな。俺を見てくれ、香織……」
縋るような彼の声に、私の心の奥の氷が、完全に溶けて流れ出ていく。
もう、意地を張る必要なんてどこにもない。
本気になったら負けのゲーム。そんなの、最初からふたりして大負けしていたんだ。
私はそっと腕を伸ばし、私の肩に預けられた彼の頭を、優しく包み込むように抱きしめた。
「っ……香織?」
驚いた長谷川の身体が、ピクリと強張る。
私は彼の広い背中に手を回し、耳元で、フッといつものように意地悪く笑ってみせた。
「本当に、格好悪いですね。完璧王子の名が泣きますよ、誠二さん」
初めて呼んだ、彼の名前。
長谷川が勢いよく顔を上げ、目を見開いて私を見つめてきた。その瞳は、驚きと、それから一筋の希望に濡れている。
「お前……それ、どういう……」
「私の負けですよ」
私は彼の胸にぽんと手を置き、少し拗ねたように視線を逸らした。
「アクシデントだなんて、嘘に決まってるじゃない。……忘れるなって言われたって、忘れられるわけないでしょ。ずっと、あなたのことばっかり考えてた。仕事中も、家でも、ずうっと」
そこまで一気に白状すると、急に恥ずかしさが押し寄せてきて、私は彼の胸元に顔を埋めた。
「だから、ゲームはもう終わり。私の完全敗北です」
私の頭上から、ハァ……と、今日一番の深い、そして心底安心したようなため息が聞こえた。
「……ふざけんな。そんな可愛いこと言っといて、何が敗北だよ」
次の瞬間、視界がぐるりと回った。
強引に抱きすくめられ、彼の腕の中に閉じ込められる。今度の抱擁には、焦りも怒りもなくて、ただただ溢れんばかりの愛おしさだけが詰まっていた。
「俺の勝ちでいいんだな。じゃあ、勝者の権利、今すぐ使うから」
「え、ちょっと――」
顔を上げた瞬間、唇が塞がれた。
誰もいない、夜のオフィス。
パーテーションの影で重なる影。
タクシーの時の、あの焦れったい嫉妬のキスとは違う。お互いの「好き」がこれでもかと溢れ出るような、深くて、熱くて、息ができなくなるほどの甘いキス。
何度も角度を変えて、貪るように唇を重ねられる。
私の背中に回った誠二の手が、私を自分の一部にするみたいに強く強く引き寄せていた。
「ん……ふ、あ……っ」
ようやく唇が離れたとき、お互いに息を切らせて見つめ合った。
誠二の前髪はすっかり乱れ、唇は赤く潤んでいる。その『完璧王子』の崩れた姿は、世界中で私だけしか知らない、最高の特権だ。
「……これで本当に、ゲームはクランクアップだな」
誠二は私の頬を親指でそっと撫で、意地の悪い、だけど心からの幸せそうな笑みを浮かべた。
「これからはゲームじゃなくて、本気。……覚悟しろよ、香織。俺、付き合ったらめちゃくちゃ独占欲強いし、お前の前では一切王子様のフリしないから」
「望むところよ。口の悪い誠二さんの方が、ずっと格好いいわ」
私がそう言って微笑むと、誠二は少し照れたように視線を逸らし、それから、もう一度愛おしそうに私を強く抱きしめた。
オフィスに響く、二人の重なる鼓動。
嘘つきたちのゲームはここで終わり。明日からは、誰よりも甘くて本気な、私たちの新しい日常が始まる。
(第10話へ続く)
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